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東京地方裁判所 昭和32年(ワ)3237号 中間判決 1958年7月19日

原告 学校法人八坂女紅場学園

被告 国

主文

本件につき被告は原告に対し損失補償の責任がある。

事実

第一、請求の趣旨

被告は原告に対し金百萬円及びこれに対する昭和三十二年五月十二日以降右完済まで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

との判決を求める。

第二、請求の原因は別紙訴状、昭和三十二年十月二十一日付準備書面及び昭和三十三年二月二十一日付第二準備書面のとおりであるので、これを引用する。

第三、被告の答弁は別紙答弁書及び昭和三十三年三月一日付準備書面のとおりであるので、これを引用する。

第四、証拠

原告は甲第一ないし第四号証、第五号証の一ないし七、第六ないし第十六号証、第十七、第十八号証の各一、二、第十九ないし第五十八号証(第五十九ないし第七十二号証は欠号)、第七十三号証、第七十四号証の一ないし三、検甲第一ないし第二十六号証を提出し、甲第四十六号証は訴外吉本興業株式会社の使用人小西某の作成にかかるものであると釈明し、証人中村豊一(第一回及び第三回)、同三好重夫、同渡辺照一、同田村義雄、同中島勝蔵、同杉田亘(第一回及び第二回)、同青木貞雄、同磯村義利及び同大貫通孝の各証言、原告代表者尋問の結果、並びに検証の結果を授用し、乙第一ないし第三号証、第四号証の一ないし三、第五号証の一、二、第六号証の一ないし三、第七号証は各原本の存在及び成立を認める、第三十七ないし第三十九号証の成立は知らない、その余の乙号各証の成立はすべてこれを認めるが、うち第三十三、第三十四号証は日付を遡及させて作成されたものと思われると述べ、検乙第一号証についてそれに関する被告の説明事実は争わないと述べた。

被告は乙第一ないし第三号証、第四号証の一ないし三、第五号証の一、二、第六号証の一ないし三、第七号証(以上はいずれも写を以つて提出。)、第八、第九号証、第十号証の一、二、第十一ないし第三十四号証、第三十五号証の一ないし三、第三十六ないし第三十九号証、第四十ないし第四十二号証の各一、二、第四十四号証の一ないし三、第四十五号証の一、二、検乙第一号証を提出し、検乙第一号証は甲第四十八号証の原本に該るもので、最初の一枚はあとの二枚と別個に作成されたもので、後に至つてこの三枚がかく一緒に綴じ合わされたもので、最初の一枚の作成は昭和二十五年二月頃、あとの二枚の作成は昭和二十七年暮頃もしくは昭和二十八年初頃である、と説明し、証人鈴木秀三郎、同山田勝太郎、同山元章(第一ないし第三回)、同椹木義雄、同青木貞雄、同吉岡章、同沢田建男、同中村豊一(第二回)、同松本健四郎、同猪俣敬次郎、同角谷忠雄の各証言を授用し、甲第二号証及び第二十二号証の公文書部分の成立は認めるがその他の部分の成立は知らない、第二十四号証及び第四十八号証の証明部分の成立は認めるがその他の部分の成立は知らない、第三、第四号証、第六ないし第十号証、第十五、第十六号証、第十八号証の一、第二十七号証、第二十九号証、第三十七号証、第四十九号証、第五十一ないし第五十八号証、第七十三号証の各成立は認める、その余の甲号各証の成立は知らない、但し、第十八号証の二が別件訴訟事件において川上主一弁護士から書証写として提出されたものであることは認める、検甲号各証が原告主張のような図面ないし写真であることは知らない、と述べた。

理由

一、原告が本訴において損害補償を請求すべき根拠として主張するところは訴状第八章に要約されているように、(イ)三好知事の賠償約束、(ロ)徴発調達の法理、(ハ)スキヤプインA七七である。ところが、成立に争いのない甲第五十八号証(六一頁以下)によれば、右原告主張のスキヤプインA七七は進駐した連合国軍が日本政府の終戦連絡中央事務局もしくは同地方事務局または日本政府の指名する代表者に調達要求書を下付して調達要求をなすことによつて進駐軍が物資及びサービスを調達した場合、連合国軍の用に供した物品、サービス及び施設の提供者に対しては日本政府において迅速に支払いをなすことを日本政府に対して命じた覚書(昭和二十年九月二十五日付)であつて、要するに、進駐軍がその必要とする物資、役務の提供を日本政府に命じ、日本政府が各個人との契約によりないし強権的にこれを入手して提供するところのいわゆる調達方式によつて進駐軍に物資役務などが供された場合に日本政府にその対価の支払義務あることを明示したものにすぎないから、右(ハ)は(ロ)に主張の調達の事実を前提としてのみ損害補償の根拠たり得るのである。而して、右調達は日本政府が物資役務などを個人から契約によりないし強権的に入手して進駐軍に提供するものであるから、これが提供をなした各個人に対し日本政府においてその対価の支払義務のあることは右スキヤプインA七七をまつまでもなく当然であるし、また、進駐軍が直接住民または市町村からその必要とする物件を徴し、またはこれらのものに対してその必要とする労務を課するところのいわゆる徴発が行われた場合もその対価は被占領国において負担すべきことは、前顕甲第五十八号証(六六頁以下)によれば、占領費は被占領国の負担とすることが国際法上の慣行であり、また「陸戦の法規慣例に関する条規」からもこれを根拠づけられるというのであるから、もし、原告主張の本件事実関係が調達ないし徴発と認められるべき事実関係であるとするならば、被告にはこれが対価の支払義務があるというべきであり、また、原告主張のようにこれが損害補償につき三好知事において契約として法律上効力を有すべき約束をなした事実ありとするならば、原告は右契約を請求原因として損害の補償を請求する権利ありというべきである。よつて、本件においては、まず原告主張の歌舞練場(原告のいわゆる広義の歌舞練場で、訴状第一目録の土地及びその地上にある同第二ないし第四目録の建物をいう。以下、単に歌舞練場というときはこれを指す。)において、原告主張のように進駐軍専用のキヤバレーなどが開設されるに至るまでの事実関係を確定し、この間に原告主張の(イ)の補償約束が成立していたか否か、(ロ)の徴発ないし調達と認められる事実があつたか否かを検討すべきものと考える。

二、歌舞練場において進駐軍専用のキヤバレーなどが開設されるに至るまでの事実関係

(一)  日本政府の京都における進駐軍との連絡機関

昭和二十年八月二十六日勅令第四九六号を以つて占領軍との連絡に関する事務を掌るため終戦連絡事務局官制が公布せられ、官制上終戦連絡中央事務局と同地方事務局が設けられ、中央事務局長官岡崎勝男は右官制直後に任命せられたが、地方事務局はまだ暫く開設せられず同年九月下旬以後になつて各地に設けられるようになつたこと、一方、内閣は同年九月始頃から各地に地方長官や各省及び軍の出先の長をメンバーとする終戦連絡委員会を設け占領軍の受入準備を実行したが、右委員会は官制等の法的裏付のない行政措置として設けられたものであること、各府県庁では昭和二十年九月始より渉外課を設け知事を部長とする進駐軍受入態勢実施本部を作つていたが、同月下旬になつて各地に終戦連絡地方事務局が設置せられるに伴い、同月十九日内務次官から地方長官に宛て「地方における終戦事務に関する件」なる通牒を発し、同通牒中に「終戦事務中渉外事項については外務部内派遣官これに当るべきも設営その他行政事項については終戦連絡地方事務局設置の如何に拘らず、地方長官が中心となり関係各庁の協力を得てこれが実施に任ぜられ度云々」と述べていたことは当事者間に争いがなく、前顕甲第五十八号証(四八頁)、成立に争いのない乙第十号証の一、二、第十一号証、第十四ないし第十七号証と証人中村豊一(第一回)、同三好重夫、同渡辺照一、同田村義雄、同青木貞雄の各証言を綜合すると、終戦当時特命全権公使であつた中村豊一は昭和二十年八月二十四、五日頃外務次官から各省より派遣される係官を以つて構成され京都に設置されるべき政府の進駐軍との受入連絡機関の長となるよう命ぜられ、昭和二十年九月七日京都に着任し、取り敢えず、府庁内に終戦連絡事務委員会を設けたが、後に右中村豊一を局長とする終戦連絡地方事務局が設置され、併せて右局長を委員長とする終戦連絡地方委員会が設けられ、京都府知事三好重夫もこの委員の一員となる一方、京都府においても、府渉外課のほかに同月十日頃三好重夫知事を本部長とする進駐軍受入実施本部を設置し、各部課長などがその構成員となつたこと、そして、京都に進駐した米第六軍との物件接収などに関する連絡は三好重夫知事が直接あたることもあつたが、主として右終戦連絡地方事務局を通じて行われ、治安及び慰安施設など憲兵隊の所管事項に関しては府警察部において憲兵隊と直接連絡に当つたこともあつたことが認められる。

(二)  京都への進駐軍の進駐

京都府に米第六軍が進駐し、その司令部が設置されたことは当事者間に争いがないが、その進駐の時期経過に関しては若干の争いがあるので、これを検討すると、前顕甲第五十八号証(一九頁)、成立に争いのない乙第八、第九号証、第十二号証、第十九、第二十号証、第二十二ないし第二十五号証に証人中村豊一(第一回)、同三好重夫、同吉岡章の各証言(後記措信しない部分を除く。)を綜合すると、まず昭和二十年九月九日ヘンライン、イーリ両大佐が先遣将校として京都に来り視察及び前記中村豊一公使などと会談をとげ、更に、同月二十日先遣調査隊としてヘンライン大佐を首班とする一行十五名が入洛し、翌二十一日に市内の諸施設を調査した後、同月二十五日以降大部隊の本格的進駐となり、第六軍司令官クルーガー大将及び憲兵司令官ベル中佐も同月二十八日に入洛した事実を認めることができる。

右認定に反する証拠は右各証拠に照らし措信できない。

(三)  京都におけるいわゆる慰安施設に関しての進駐軍当局と日本側との折衝

前顕乙第二十五号証及び証人山田勝太郎の証言によれば、前記憲兵司令官ベル中佐は昭和二十年九月二十八日夜及び二十九日朝の二回にわたり京都府警察部長青木貞雄と会談し、その際、慰安施設の状況についてベル中佐から警察部長に対し質問はあつたが、これに関して特段の要求はなされなかつたこと、及びその翌日頃ベル中佐は右警察部長または木下保安課長の案内で京都市内の慰安施設を視察し、本件で問題となつている歌舞練場へも赴いたことが認められ、右がベル中佐と日本側との慰安施設問題についての最初の折衝であることは証人山田勝太郎の証言及びベル中佐の進駐が昭和二十年九月二十八日であるという右(二)に認定の事実から窺うに難くない。もつとも、証人中村豊一の証言(第一回)、右証言により成立の真正が認められる甲第十二号証、証人青木貞雄の証言、右証言により成立の真正が認められる甲第十四号証、証人渡辺照一の証言、右証言により成立の真正が認められる甲第十一号証及び証人三好重夫の証言を綜合すると、その後にベル中佐から京都府警察部に対し、また、第六軍調達部から連絡委員会に対し歌舞練場において軍専用のキヤバレーを開設するよう連絡があり、また、日本側係官がこれを検分した事実が窺われるが、証人三好重夫の証言中かねて日本側で計画していた慰安施設を計画どおりにやるようにとの連絡であつたとの趣旨の証言及び後記認定の歌舞練場をキヤバレーに転用する方針は既に昭和二十年九月中旬に定まり、右ベル中佐の視察当時は既に歌舞練場において改装工事が進行中であつた事実からすれば、右連絡を接収すべき旨の口頭命令と断ずべきか否かは疑問であり、かえつて、府としての既定方針を推進すべき旨の勧奨程度に止つたものであると解せられる。

(四)  京都八坂女紅場財団法人(以下、単に財団法人という。)の責任者の京都府当局との歌舞練場の転用に関する折衝及びキヤバレー開設に至る経過

歌舞練場を進駐軍用の慰安施設に転用するにつき京都府知事三好重夫、京都府警察部長青木貞雄らが、財団法人の理事長である杉浦治郎右衛門に交渉したこと、吉本興業合名会社(以下、単に吉本という。)と祗園新地甲部貸座敷組合との間で歌舞練場についての賃貸借契約書を作成し、その賃貸料を年額金三十万円と定めたこと及び昭和二十年十二月二十七日狭義の歌舞練場(訴状別紙第二目録の建物)において吉本の経営する進駐軍専用のキヤバレーが開場されたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実と証人三好重夫の証言、右証言によつて成立の真正が認められる甲第十三号証、証人中島勝蔵、同杉田亘(第一回及び第二回)、同青木貞雄の各証言、原告代表者尋問の結果、右尋問結果及び証人中島勝蔵の証言により成立の真正が認められる甲第十七号証の一、二、前顕甲第十四号証(甲第十七号証の一、二以外はいずれも後記措信しない部分を除く。)、成立に争いのない乙第二十一号証、第二十六号証、第二十九号証、第三十号証を綜合すると次の事実が認められる。

終戦による進駐軍の進駐という事態を前にして京都府当局はその治安対策に腐心していたが、京都府知事三好重夫及び京都府の首脳部の間で、その治安対策の一環として歌舞練場において進駐軍将兵用のキヤバレー、映画施設などを開設するようにすることが上策であるとの議がまとまり、昭和二十年八月下旬か九月初旬頃右三好重夫は当時歌舞練場の所有者であつた財団法人の理事長、代表者たる杉浦治郎右衛門を府庁に呼び出し(右所有の事実は成立に争いのない甲第七ないし第十号証によつてこれを認める。)、歌舞練場においてキヤバレーを経営するよう要請したが、右杉浦治郎右衛門は平和が回復されれば祗園甲部のお茶屋営業も再開されるであろうし、歌舞練場再びその本来の目的たる芸妓の技芸の修得及び温習会公演会などのため必要となるので、これに応じ難い旨を申し述べ、一旦はこれを拒絶した。ところが右三好知事、青木警察部長などは更に再三にわたり右杉浦治郎右衛門を府庁に呼び出し、同人に対し、右の要請に応じないでいれば直接進駐軍によつて接収されるだろう、これは国の必要で懇請するのであるから、政府としては必ず迷惑をかけないようにする、損害は補償するとの趣旨を申し述べたところ、杉浦治郎右衛門は財団法人としてはキヤバレー経営の経験がないと申し述べたので、京都府側は、それならば財団法人としては建物を提供してくれればよい、その経営はそれに向いた者にさせることにしようと提案した。当時は終戦直後のこととて府、警察などの指示には従わざるをえないような情勢にあつたため、杉浦治郎右衛門をはじめ財団法人の首脳部ももはや建物の転用はやむを得ないと考えて承諾し、京都府側と共にその経営の衝に当るべき者を物色した結果、前記吉本がその候補にのぼり、松久憲司なる者を通じてこれと折衝した。吉本も当初は改造費用などの点で躊躇していたが、遂にこれが経営を承諾するに至り、財団法人は歌舞練場を吉本の使用に委ね、吉本は改装に要する資材は当時統制下にあつたため、その一部は京都府から特配を受けて直ちに改装工事に取りかかる一方、吉本においてダンサーを新聞広告で募集し日本人のダンス教師及び米軍下士官の指導の下にダンスを教え、昭和二十年十二月二十七日狭義の歌舞練場はグランド京都として開場した。而して、吉本が改装工事に取りかかつた後財団法人の理事の一人たる中路弥市が、財団法人は現在経済的に困窮しているのに歌舞練場を提供したのであるから、なにがしかの金員を吉本から受けるようにしなければならないと主張し、吉本と折衝の結果歌舞練場につき吉本と財団法人との間で賃貸借契約を締結したこととし、賃貸料名義で年間金三十萬円の金員を吉本から受領することを約し、昭和二十年十月三十日付の賃貸借契約書及び覚書(甲第十七号証の一、二)を作成し、なおこれに当時までに両者間において協定されていた改造費用に関する条項もおりこみ、弥栄会館(訴状別紙第四目録の建物)の暖冷房装置並に昇降機の取付改修費用は双方で折半し、弥栄会館映画場の椅子取付の費用は財団法人の負担とすることを定めたのであるが、右賃貸料名義の金員は当時の歌舞練場の相当賃料と認めらるべき金額の数分の一であつたし、財団法人の右改修費用などの負担額は金百数十万円に及んだ。歌舞練場のうち狭義の歌舞練場はキヤバレーとなつたことは右のとおりであるが、八坂クラブ(訴状別紙第三目録の建物)はその附属たる茶席とともにダンサーその他吉本の従業員の宿舎に用いられ、弥栄会館は吉本において昭和二十年十一月二十一日頃から日本人向の実演劇場として使用し、その後に進駐軍専用の映画館として経営する予定でいたが、進駐軍は京都市内にある宝塚劇場をその専用映画館として使用し始めたため、遂に進駐軍専用映画館としては開場されず、吉本は同所において日本人向の映画館を経営した。

なお、右認定の賃貸借契約書及び覚書(甲第十七号証の一、二)に掲記の契約当事者は吉本と祗園新地甲部貸座敷組合となつており、その他前顕各証拠中にも右組合の名がしばしば見受けられるのであるが、証人中島勝蔵の証言によれば、右組合は祗園甲部のお茶屋業者を以つて構成する任意組合で右業者の営業上の受け払いその他業者に共通の問題を処理することを目的とするものであり、一方財団法人は祗園甲部の芸妓に業務上必要なる技芸を修得させる学校の設立を目的とする法人であるが、両者の責任者は多く同一人であり、また、右組合は財産を所有せず、財産を取得すればすべてこれを財団法人に寄付することになつているため、実際には両者の名称はしばしば混同して用いられていたことが認められ、歌舞練場の所有者も右組合ではなくて財団法人であつたとの前記認定の事実と併せ考えれば、右契約書上に右組合が契約当事者の如く表示されているのも、右混同の結果であつて、当事者の真意は吉本と財団法人との契約にあつたものと認めるのが相当である。

右の事実を認めることができる。而して、京都府側の要請に基く右転用決定の時期であるが、成立に争いのない乙第十三号証によれば、昭和二十年九月十二日頃には既に歌舞練場が進駐軍将兵用の娯楽施設として吉本の手によつて経営されることが決まつていたかに窺われ、また、証人山田勝太郎の証言によれば、同年九月二十九日頃に行われたベル中佐の慰安施設に関する前記視察の当時には既に歌舞練場において改装工事が着手されていた事実が認められることからすれば、京都府側の財団法人に対する要請は進駐軍の進駐に先立つて行われ、その進駐以前たる同年九月中旬頃までには歌舞練場を使用して吉本がキヤバレーを経営する方針が決定していたものと推認せざるを得ない。以上の認定に反する証拠は措信できない。

(五)  進駐軍の歌舞練場に関する直接行動。

証人中島勝蔵、同杉田亘(第一回)の各証言、原告代表者尋問の結果(いずれも後記措信しない部分を除く。)によれば、進駐軍の先遣隊が入洛して三日目位に米憲兵三名程を含みマクロベー中尉を長とする十三、四名の米兵がトラツクにて歌舞練場に乗り付け、建物内を視察したる後、ピアノなどを要求したこと、祗園から終戦連絡地方事務局への連絡により同事務局では鯖戸英郎通訳を派遣し、同通訳が接収は正式の手続によつてなして貰いたいと申し述べたところ、米兵らは拳銃を擬して、我々は占領軍だ、そのようなことをいうならば建物全部を占領するから表へ出ろとの趣旨を申し述べて威力を示し、ピアノ一台、電話機一台、ソフアー五脚を持ち去つて行つたことが認められる。

右認定に反する証拠は措信しない。

ところで、右直接行動は、早くとも進駐軍の先遣隊が入洛した後であるべきことは勿論であるところ、当時はすでに歌舞練場において吉本がキヤバレーを経営する方針が決定していたことは前記認定のとおりであり、また、右直接行動が前記認定のベル中佐の慰安施設についての勧奨と関連ありと断ずべき証拠もない。

三、以上のようにして、歌舞練場においてキヤバレーが開設されたのである。そこで、まず、京都府知事三好重夫による損害補償約束について検討するに、同知事において財団法人の責任者に対し財団法人が京都府知事の要請に応じて歌舞練場を提供した場合は政府として必ず迷惑をかけないようにする、損害は補償するとの趣旨を申し述べて、歌舞練場の提供を要請した事実は前記二(四)に認定のとおりであるが、証人三好重夫の証言によれば、右発言は国の方針に従つた者に対していかなる形式によつて補償をなすかは当時全然未定のままに、ただ、国として国民が国の方針に従つて進駐軍の用に供するため建物を提供するなどの協力をなし損失を蒙つた場合、その損失をその国民の負担とすることは常識的にも考えられないとの前提にたつての発言であつたことが認められ、右の事情からすれば、右は一種の政治的発言と認むべきで、これを以つて法律上の効力を有すべき契約の申込をしたものとは到底認められない。

よつて、右約束を請求原因とする請求は失当である。

四、更に、これが進駐軍による徴発であるかを考えてみると、右キヤバレーが進駐軍専用であつたことは前記のとおりであつて、証人杉田亘(第一回)の証言及び右証言によつて成立の真正を認め得る甲第十九ないし第二十二号証(但し、甲第二十二号証中公文書部分の成立については争いがない。)によれば、右キヤバレーについては京都府警察部において開設の許可を与えた事実もなく、開場時間中は十名程度の米憲兵が常駐し、うち四、五名は入口にあつて入場者の外出証を調べ、他は場内を巡邏していたこと、ダンサーの検診をはじめ場内における衛生方面についての監督には進駐軍当局が当り、府警察部の行政監督外にあつたこと、在庫ビールの残量も軍においてこれを検しており、右キヤバレーにおける飲食については日本政府において遊興飲食税を課したことがなかつたこと及び特別の事情があつて日本人が右キヤバレーを用いたい場合は、憲兵隊司令官にその許可を申請し、許可を得て昼間使用したことが認められる。

しかし、一方成立に争いのない乙第四十二号証の一、二によれば、昭和二十年十月一日付全国財務局間税部長会議指示事項により進駐軍将兵の飲食については遊興飲食税を課さないことが定められていたことが認められ、成立に争いのない乙第三十二号証、第四十一号証の一、二によれば、右歌舞練場の場合に限らず、進駐軍将兵の出入する専用キヤバレーないし日本人との併用キヤバレーは当時進駐軍憲兵の監督下にあり、また、歓楽地内は混乱の予防及び鎮圧ならびに私行動を規制する軍命令実施のため定期的に憲兵の巡邏が行われていた事実が窺われるから、右の諸事実から歌舞練場が進駐軍の占有に移されていたと断ずることは妥当でなく、他にもこの点の事実を認むべき証拠はないし、また、キヤバレーヘの転用が進駐軍の命令によつたのではないことはさきに認定のとおりである。

従つて、進駐軍の徴発を前提として補償請求をなすことも失当である。

五、而して、歌舞練場の転用に関し進駐軍の命令と認むべきものが存在したと認定するに足る証拠もなく、また、歌舞練場が進駐軍の占有に移されたとも認められない以上、右転用を以つて原告主張のようないわゆる調達方式による調達とも認められないことは勿論であるが、京都府知事三好重夫らが財団法人の責任者に対し右転用に関し強力に要請をなし、右要請は相当に強圧的になされ、財団法人の理事長杉浦治郎右衛門らをして建物の転用はもはやこれを承諾するのほかなしと観念させ、遂に承諾させるに至つたこと前記二(四)に認定のとおりである。そして、右転用に対する反対給付は国から給付されていないことは勿論、歌舞練場でキヤバレーを経営することになつた吉本から受取るべく約した金員は年間金三十萬円で到底当時の相当賃料に及ばないものであつたこともさきに認定のとおりで、吉本の歌舞練場占有についての対価とは認められないから、結局歌舞練場の所有者たる財団法人は右府知事らの要請の結果被告その他何人からも対価と認めらるべきものは全然反対給付として受領することなく歌舞練場をキヤバレーに提供し、損失を蒙つたわけである。さうであるとすれば、右府知事らの要請は事実行為にすぎず、また、いわゆる調達方式の調達には該当しないけれども、府知事らが進駐軍の進駐に関連して私人の財産につきこれを進駐軍の用に供せしむべくなした強制的ともいうべき措置で、財団法人は右措置の結果損失を蒙つたものである。

かかる場合被告においてこの損失を補償すべき責任があるか否かにつき検討するに、右府知事らの事実行為はさきに認定のような情勢のもとにおいては社会的に非難に価する余地はなく、府知事らとしてなすべき行政上の必要にでた行為で不法行為とは認められないけれども、当時においても、国が公益上の必要に基き特定の私人に対しある行為をなした場合において、当該行為がたとえ適法なものであるとしてもその結果としてその私人にその責に帰すべからざる特別の犠牲と認められるべき損失を蒙らしめたときには正義公平の見地から全体の負担においてその私人の損失を調節する必要から、国にこれが補償の義務、講学上いわゆる公法上の損失補償義務を負担せしめるべきことは、わが実定法の解釈から肯定されるべきものと思料する。以下これを論証する。

大日本帝国憲法は、その第二十七条において「日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」と規定するのみで、公益のためにする所有権の制限につき一般的に補償を与えるべきものであるか否かに関しては明らかにするところがなかつた。しかしながら憲法義解は、本条を註釈して「公益収用処分ノ要件ハ其ノ私産ニ対シ相当ノ補償ヲ付スルニ在リ」と述べ、公益のために国民の財産権に特別の犠牲を負わしめる場合には、相当の補償を与えるべきことが旧憲法の精神とするところであることを説明したのである。思うに近代国家が一方において国民の所有権その他の財産権を基本的人権の一として保障するとともに、他方において公益上の必要に基いてこれに制限を加える場合においては正当な補償を与えなければならないことは、自然法的な正義公平の理念に合致するものであるとして、法的にもこれを保障する制度が着々拡充されて来たし、更にこれを強化する施策が講ぜられつつあることは、敢えて多言の要をみないところである。わが国においても、旧憲法第二十七条の規定と新憲法第二十九条の規定とを比照すれば、右の例に洩れるものでないことは明瞭である。現に明治憲法の施行されていた当時においても公法上の損失補償制度を明文化した法律は少くなかつたが、新憲法の施行に伴つて面目を一新し、該制度の躍進的な充実徹底化が図られたことは、我々の記憶に新たなところである。

ただ日本国憲法施行後のことはさて措き、大日本帝国憲法の下においては、国民の所有権その他の財産権に対し公益上の必要により制限を加えることは、法律の規定にまちさえすれば自由であつたし、その第六十一条により、行政官庁の違法処分により権利を害せられたとする訴訟は司法裁判所の裁判権の対象から排除され、別に法律をもつて定めた行政裁判所の裁判に属すべきものとされ、しかも行政裁判法および明治二十三年法律第百六号行政庁ノ違法処分ニ関スル行政裁判ノ件の規定により行政裁判所に対する出訴事項は限定されていたのである。ところが日本国憲法は、この点につき画期的根本的な変革を加え、行政裁判所を廃止して、従来その権限に属せしめられていた事件はいうに及ばず、一切の行政上の争訟に関する裁判権を司法裁判所に帰属せしめたのである。ところで旧憲法当時、公法上の損失補償を肯定する一般的規定のないことを根拠として、公権力により国民の財産権が侵害された場合においてもこれを補償する旨の明文の規定がない以上は、如何に正義公平の原理に反するものであつても、国民はこれを受忍すべく、法律上の救済は与えられないものであるという見解が通説的地位を占めていたのであるが、この説は、かような侵害に対して損失の補償をしない旨の法律の明文のある場合または少くとも法律全体の趣旨からそのように解釈せざるを得ない場合に関してはともかくとしても、その点につき法律の沈黙している場合にまでその正当性を主張し得べきものであるか否かは極めて疑問であるといわねばならない。

そもそも公法上の損失補償制度は、さきにも一言した如く、国家が私有財産制を保障する反面において、国家の任務の発展積極化に伴い、その活動が多かれ少かれ必然的に国民の個人生活と接触し、これに影響を及ぼさざるを得ない趨勢を辿ることを免れないところからして、正義と公平の観念を基礎として、特定人に生じた特別の犠牲は全体の負担においてこれを補償すべきであり、且つ、かくすることによつて私有財産権の尊重とこれに対する公益上の必要に基く制限の要請とを調和し、法律生活の合理的安定を確保し、延いては将来への予測の可能性を実現しようとするところに、その基盤を求めるべきものであり、基本的人権の保障の一環として私有財産制を採る諸国家においては、漸次右損失補償制度の進展が図られているのであつて、旧憲法下のわが国もその例外ではなかつたのである。

さて叙上所論に対しては、公法上の損失補償制度が正義と公平の理念に基礎づけられるものであると説くことはは、それ自体として正しいものであるにしても、ただ単にそれだけの理由から、この制度をわが国において実定法上のものと主張することは、直ぐには容認されず、法律の規定あるところにのみその制度による救済を与えるに止めるべきものであるとの反駁が当然予想されるのである。

しかしながら公法上の損失補償制度が単なる恩恵に過ぎないものではなく、既に度々繰り返して来たとおり、私有財産に対して加えられた特別偶然の制限に基く損失を、正義公平の見地から全体の負担において調節按配する機能を営むものであり、その原理が既に大日本帝国憲法においても憲法上のものとしての承認された以上は、少くともその点に関し法律の規定の欠缺している場合にまでも、右反論の根拠とするような理由だけに基いて否定的な解釈をすべきではないと考えるのである。かくして公法上の損失補償に関する憲法及びその下における諸立法の解釈を帰納することによつて、わが国においてこの制度は大日本帝国憲法の施行当時においても実定法上のものとして認められていたものと解するに妨げはないものと思料する。

本件の場合は正に国の損失補償義務の存否につき法律の沈黙する場合に当るものとみるべく、上来判示したところに照して、被告はその機関として国の行政上の必要に基く行為としてなした京都府知事三好重夫らの歌舞練場提供に関する原告に対する要請に基因して損失を蒙つた者に対し右行為と相当因果関係にある損失を補償すべきである。

六  昭和二十年当時歌舞練場が財団法人の所有であつたことはさきに認定のとおりであるが、証人中島勝蔵の証言と右証言により真正な成立を認め得る甲第五号証の六、七、成立に争いのない甲第三、四号証及び第六号証を綜合すれば、昭和二十六年六月十日財団法人の理事会(財団法人はその名称を変更し、当時は財団法人京都八坂女紅場と称していた。)はその所有するすべての財産を寄付して学校法人たる原告を設立することを決議し、同年七月十日右寄付申込をなして同月二十七日解散、原告は同年七月三十一日その設立登記を了した事実が認められるから、私立学校法第三十四条及び民法第四十二条第一項の規定に照し、右経緯により原告は財団法人の一切の権利義務を承継したというべきで、原告は右権利承継の時期までに財団法人の蒙つた損失を右補償請求権の承継により被告に請求し、また右時期以後は原告が歌舞練場の所有者として蒙つた損失の補償を被告に請求する権利があるというべきである。

七  以上の如くして、被告は原告に対し京都府知事三好重夫らの前記行為と相当因果関係にある財団法人ないし原告の蒙つた損失を補償すべき義務ありというべきであるので、民事訴訟法第百八十四条に則り、主文のとおり中間判決する。

(裁判官 桑原正憲 佐藤恒雄 三好達)

訴状

京都市東山区祗園町南側五七〇番地の二

原告 学校法人 八坂女紅場学園

右代表者理事長 杉浦治郎右衛門

東京都千代田区丸の内三菱仲二八号館五〇四号(電(28)九五〇〇)

右訴訟代理人・弁護士 中村豊一

東京都千代田区内幸町富国ビル三一一号(電(23)五一九五)

同 磯村義利

被告 国

東京都港区赤坂町赤坂離宮内法務省訟務局

右代表者法務大臣 中村梅吉

損害補償請求事件

訴訟物価格金百万円

貼用印紙 金六、三〇〇円

請求の趣旨

被告は原告に対し金百万円及びこれに対する本訴状送達の翌日以降年五分の割合による損害金を支払わなければならない訴訟費用は被告の負担とする

との判決を求める

請求の原因

緒言

本件は祗園が昭和二〇年九月末頃京都府知事の説得を承諾して自己の所有にかかる土地建物等を進駐軍専用の娯楽施設に充てるため提供したことによる損害の補償を求めるものである。

第一章祗園

京都の祗園はその起源古く格式の高い遊里である。但しここに祗園とは祗園甲部を指し所謂遊廓を成す祗園乙部を除く。数十年以来お茶屋業者の数は百五十乃至百八十、芸妓の数は三、四百であつて大きい変動はない。

一 組合と法人

祗園のお茶屋業者が組織する団体は明治時代以降組合と法人の二個であつて業者共通の事項はこの二個の団体によつて処理せられる。

1 組合

明治以来祗園新地甲部貸座敷組合と称したが、昭和二一年祗園新地甲部席貸待合業組合と改名し、昭和二四年祗園新地甲部組合と改名した。祗園の業者全部を組合員とし人格のない任意組合であるが芸妓招聘の取次、業者と芸妓間における営業収入金の分配、組合員の税務を始め業者の営業につき共通の利害ある重要事項を処理し祗園の中心的機関である。但し法人格がないから固有の財産を有することなく、財産はすべて左記の法人に帰属する建前である。決議機関として組合会議及び常議員会を置き執行機関として選挙により選出される取締及び副取締を置く。取締は組合万般の事務を統理し組合を代表し、副取締は取締を補佐し取締事故あるときこれを代行する。本件の問題を生じた昭和二〇年当時取締は杉浦治郎右衛門、副取締は中島勝蔵であつた。

「甲第一号証」は昭和一七年改正従つて昭和二〇年当時の組合規約で右に述べた組合の目的組織等が記載せられている。これは昭和二一年改正せられたが規約の大綱は古くより今日まで右本文に記載した通りであつて変更せられていない。

2 財団法人

祗園においては古くより業者の子女及び芸妓につき修身国語の外生け花舞踊等業務上必要な技芸を修得させるため学校様式による教育を施しているのであつて、この目的(寄附行為の用語に従えば祗園甲部の婦女子及び祗園甲部芸妓の生活に必要な学芸を授け自立の職業を得しめること)のため明治三五年内務大臣の許可を得て民法による京都八坂女紅場財団法人(昭和二二年財団法人京都八坂女紅場と改称)が設立せられ、学級式による教育を実施して来たが、昭和九年京都府知事の認可により右財団法人は正式に私立学校令による学校として京都八坂女紅場(昭和二〇年京都八坂技芸実践女学校、昭和二二年京都八坂女子技芸専修学校と改称)を設立した。右財団法人は決議機関として議員会議(総会とも称する、議員は業者より選挙によつて選出せられる)を置き、執行機関として議員会議より選出せられる五名の理事を置いた。理事の互選によつて理事長一名を定め法人を代表し事務を総理せしめる。又学校には校長及び教員を置き嘱託教師講師が置かれた。昭和二〇年当時理事長は杉浦治郎右衛門であつた。財団法人は右教育の外昭和二三年医療法人より東山病院を買収し業者芸妓等の治病のため病院を経営した。この財団法人は次に述べる学校法人に改組するため昭和二六年六月解散し清算に入つた。

「甲第二号証」は財団法人の設立寄附行為で法人の目的組織等が記載せられている。同号証は昭和一二年の改正直後印刷せられ、その後の改正を事務員が赤のペン書で訂正加筆したもので昭和二〇年頃現在の内容である。

「甲第三、四号証」は財団法人の閉鎖登記簿抄本で理事の交替清算等を立証する。

「甲第五号証の五」は財団法人の昭和二六年六月解散当時の寄附行為である。

3 学校法人

昭和二五年私立学校法が施行せられるや京都府学務課より祗園に対し「財団法人京都八坂女紅場の行つていることはそのまま私立学校法による学校法人の行うべきことであるから財団法人を学校法人に改組したらどうか、学校法人にすればその目的に使用する土地建物等の財産は免税になる」との勧誘を受けたので祗園では検討の末改組することとなり府学務課の指導により改組を実行した。

祗園ではまず昭和二六年六月一〇日理事会を開き当時の理事三名出席し財団法人京都八坂女紅場を学校法人八坂女紅場学園に組織かえすること及び組織変更に伴い財団法人の全財産(負債も含む、甲第五号証の三学校法人設立趣意書の四資産中に未払金と表示したのは負債を意味する)を新設学校法人の基本財産及び運用財産として寄附することを決議し(甲第五号証の六)、学校法人の寄附行為(甲第五号証の四)を作成し、昭和二六年七月一〇日京都府知事に対し寄附行為の認可申請をし同月二七日認可を得て同月三一日設立の登記(甲第六号証)をした。そして既に解散して清算中の財団法人より学校法人は一切の財産及び事業をそのまま引ついだ。学校法人が財団法人より引ついだ京都八坂女子技芸専修学校(私立学校法六四条の私立各種学校)は昭和二七年祗園女子専門学校と改称され、東山病院は昭和二九年他に売却し目的たる事業から削除された(甲第六号証)。

「甲第五号証の一乃至六」は府知事に対する学校法人寄附行為認可申請書類で甲第五号証の一は申請書、同号証の二乃至五はその添附書類である。同号証の二は目録、同号証の三は設立趣意書、同号証の四は学校法人の寄附行為、同号証の五は当時の財団法人の寄附行為、同号証の六は改組を決めた理事会決議録である。

「甲第六号証」は学校法人の登記簿謄本である。

4 財団法人と学校法人との関係

両法人の関係は右に述べた如く単なる改組改名であつて実体は同一である。即ち甲第五号証の四乃至六第六号証によつて明なように両法人の事務所所在地、目的たる事業、財団法人の最後の理事理事長と学校法人の当初の理事理事長は皆同一であり、財団法人より学校法人への全財産の寄附によつて学校法人の設立当時は財産も同一である。関係人世人は皆両法人の関係を単なる改名に過ぎないと考えている。

5 組合と法人との関係

組合と法人との関係は一心同体で代表者も大体同一人である。それでよくこの両者は理事者と雖混同する。そして習慣上社会的活動は組合の名を用いることが多い。対外活動は多く組合の名で行うため契約陳情等も組合の名を用いたことが多いがその実は法人の行為と見るべき場合が多く、かかる場合は法人と称すべきを組合と称した誤りである。又組合と法人両者を表示すべきに組合とのみ表示した場合も多く、これはやはり単に表示を誤つただけであるから両者の行為として有効である。法人所有の建物等の財産も組合は自由にこれを使用するのであり組合のすることは法人で一切これを承認するのである。

二、歌舞練場(広義)

右一に述べた祗園の組合及び法人がその事業(東山病院を除く)のため使用する不動産は別紙第一目録記載四〇七四坪余の宅地とこの地上に建設せられた別紙第二乃至第四目録記載延坪合計三三二〇坪の建物であり、高塀に囲まれた門構えのこの一劃の土地建物を総称して祗園の歌舞練場という。

1 土地(別紙第一目録の宅地四〇七四坪余)

右土地は京都府の所有であつたところ明治四五年六月一〇日京都八坂女紅場財団法人が京都府より払下を受けて所有権を取得し同月一四日その移転登記をした。昭和二七年七月財団法人京都八坂女紅場はこれを学校法人八坂女紅場学園に寄附し同年九月その所有権移転登記がなされた。

「甲第七号証」は右土地の登記簿謄本

「図面一」は本件土地と建物の配置図(三〇〇分の一)である。昭和一九年頃作成したものを昭和二九年に復写したものである。本件土地はこの図面中二重白線で囲まれた部分であり、Cと表示した建物が八坂クラブである。弥栄会館と八坂クラブの中間にある複雑な建物が歌舞練場である。

2 歌舞練場(狭義)(別紙第二目録の建物、延坪八四四坪余)

京都八坂女紅場財団法人(即ち学校)の芸能練習場及び都おどり会場として大正三年建築せられ、同年二月右財団法人の所有として保存登記がなされ、その後数次に相当の模様替が行われた。昭和二七年七月財団法人京都八坂女紅場はこれを学校法人八女坂紅場学園に寄附し同年九月その所有権移転登記がなされた。歌舞練場は広義ではこの一劃の土地建物全部を指すが狭義ではこの建物だけを指す。

藤原末期から鎌倉初期の純日本式手法による大建築(甲第五三号証四項)で多数の小教場(畳敷或は板敷)休憩室と大講堂(舞台と観客席)より成る。大講堂では儀式の外温習会公演会を行い殊に明治以来毎年春期に三〇日乃至四〇日公演される都おどりは京都名物として海外にまで有名でその収入は祗園の主要な財源である。玄関(大玄関という)廊下大講堂等の天井は有名な桝形の格天井(ゴウテンジヨウ)でその杉柾の桝目には著名の画家が色彩画を描き貴重な美術品であつた。襖その他の調度も高級なもので数百の来客観客休憩用高級椅子机が傭えられ、都おどり会場に相応しく建設された講堂の舞台及び観客席は優雅と絢爛を誇つて日本一と称され、ドイツ製豪華な大グランドピアノ二台が置かれてあつた。

太平洋戦争が激化し昭和一九年半頃より京都八坂技芸実践女学校は授業を中止したので歌舞練場も使用されなくなつた。

「甲第八号証」は歌舞練場の登記簿謄本

「写真一乃至四」は大正六年歌舞練場の竣工式を挙げたときの記念写真の複写である。写真一は正面大玄関、写真二は講堂での竣工式で群衆はお茶屋業者、写真三は講堂観覧席後部、写真四は廊下の格天井。

「図面二」は大成建設株式会社が作つた昭和一九年頃現在の歌舞練場一、二階平面図(二〇〇分の一)で図面一の原本となつた青写真に基ずきこれを拡大して昭和二九年作成したもの。

「図面三」は昭和二九年大成建設が従前の資料に基ずき作成した昭和一九年頃の歌舞練場一、二階天井伏図(二〇〇分の一)で殊に格天井の所在に留意せられたい。

「図面四」は昭和二九年大成建設の作成した昭和一九年頃の歌舞練場断面図(一〇〇分の一)。

3 八坂クラブ(別紙第三目録の建物、延坪四六三坪)

大正天皇御即位の饗宴場として御使用を頂くため、京都八坂女紅場財団法人が大正五年建築し同年五月同法人の所有として保存登記がなされた。昭和二七年七月財団法人より学校法人八坂女紅場学園に寄附せられたがその所有権移転登記はまだなされていない。

多数の室や小講堂(小劇場)に分れ饗宴場として使用した後は一部を財団法人の事務所に大部分は学校の教場演習場に使用していた。八坂クラブの内第三目録の最後に記載してある木造瓦葺平家建居宅建坪三八坪の部分は本屋と離れ茶席と称し学校の生徒に茶の湯の授業をするのに使用された。

「甲第九号証」は八坂クラブの登記簿謄本。

4 弥栄会館(別紙第四目録の建物、延坪二〇一二坪余)

最初から劇場とするため京都八坂女紅場財団法人が昭和一九年建築し同年九月自己の名義に保存登記したものである。昭和二七年七月財団法人より学校法人に寄附せられたが所有権移転登記はまだなされていない。昭和二〇年当時はその一部を組合の事務所に使用していたのみである。

「甲第一〇号証」は弥栄会館の登記簿謄本。

第二章終戦直後の調達

昭和三一年三月二五日調達庁総務部調査課発行「占領軍調達史」を「調達史」と略称して引用し、昭和二八年二月一日調達庁総務部紛議処理課園田事務官編「クレームの理論と実際」を「クレーム」と略称して引用する。

一 調達の性質

1 日本の間接管理

日本占領について占領軍が直接に占領行政を行う直接管理方式をとらず占領軍が日本政府に対し所要の指令を発し、日本政府がこれに基き国内法に従つて統治を行う間接管理方式がとられたことは著名な事実であつて、これは既に一九四五(昭和二〇)年九月六日米大統領よりマツカーサー元帥への通達の第二項に「日本の管理は日本政府を通じて行われる。しかしこのことは必要があれば直接に行動する貴官の権利を妨げるものではない」と明記せられている(調達史二九、三〇頁)。

2 調達と徴発、間接調達

調達は右の間接管理方式に即応し、今次の日本占領において史上始めて採用せられた占領軍の物資役務の取得方法であつて徴発と異る。

調達の基本を定めた一般条項は一九四五(昭和二〇)年九月三日の日本政府宛指令第二号で日本政府に対し占領軍の要求する一切の物資を提供すべきことを命じたものである(調達史七四-七六頁)。従つて調達に関する限り日本政府は国内法によつて適法に行為すべきであり、占領軍の行為から生じた一切の責任は法律上全面的に国に帰属する。この責任を追及するにつき被害者が行政手続によるか訴訟手続によるか或はこの二者を併用するかはその任意である(クレーム九頁)。

徴発は占領軍が直接個人に対し或は地方自治体を使役して強権力により人民より物資役務を取得する公法関係である。調達は日本政府が国内法に基ずいて人民との自由契約により物資役務を得てこれを軍に提供するものであり、占領軍と日本政府との間では徴発的色彩を有するが日本政府と被調達者との間では売買賃貸借等民法上の契約である。徴発は昭和二〇年九月一五日附占領軍内部指令によつて禁止せられ調達のみが許されたのである。(調達史六八-七一頁七七〇頁)

調達の実現は原則として国が直轄して履行するものでなく国がその責任において、被調達者と請負その他の契約をし被調達者をして占領軍の監督下に契約を履行せしめることによつて間接的に調達要求を充足する方法即ち間接調達を常道とする(クレーム一〇頁二四頁)。

日本政府が人民との自由契約による調達のみでは要求物資を取得し得ないことを考えこの場合に政府が強権を以てこれを取得し得るようにしたのが、昭和二〇年一一月一七日のポツダム勅令六三五号要求物資使用収用令及び六三六号土地工作物使用令で、これにより政府は占領軍の要求を充足するため必要あるときは強権(罰則)により要求物資を使用収用し、或は土地工作物(建物を含む)を政府に引渡さしめて使用し得ることとなつた(但しこれに対しては日本政府が損失を補償する)。これは日本政府のいわば徴発である。しかし本件におけるが如くこの両勅令発布以前においては日本政府は自由契約による調達の外なかつたのである。

3 調達と補償

徴発及び調達は人民に必ず対価を支払う点においては同一であつて無償の徴発或は調達というものは国際法上或は国内法上存しない。一九四五年九月二五日スキヤツプインA七七日本における調達に関する件は日本の国内法としての効力ありと思料せられるのであるが、その五項は「日本政府は占領軍の用に供せる物品サービスおよび施設を日本政府に提供した者に対し迅速に支払を行うべし」と命じている。(調達史六二頁)

4 調達の文書

占領初期においては口頭の調達が主であつたが占領軍は追々P・DおよびP・Rの文書を発給するようになつた。軍が調達につき日本政府に対しP・D(Procurement Demand)即ち調達要求書を発し、調達の充足された際受領将校より供給者に対しP・R(Procurement Receipt )即ち調達受領書が署名の上交付される手続が段段行われ出したのは昭和二〇年一〇月中旬以後のことである(調達史六一頁)。そして補償の請求に対し軍は原則としてこのP・DとP・Rのあることを以てこれを許す条件とし、この文書のないものは原則として(例外は認めるが軍の許可を要する)補償しないよう日本政府に命令していたのであつて昭和二七年六月媾和条約発効に伴い始めて補償にP・D及びP・Rを要するという原則がなくなつたのである。(クレーム三六五頁)本件もこのP・Dがなかつたために補償措置がのびのびになつてしまつたものである。

二 調達に関係する官庁

1 終戦連絡事務局と終戦連絡委員会

「降服条項実施のため連合軍の要求事項を受理する権限」を有する全権河辺虎四郎中将が昭和二〇年八月二一日マニラより携行して帰つた連合軍要求書第三号の七項「日本政府は占領期間中占領軍により要求せらるべき地域及び諸便宜を供与すべき機能を有する中央機関及びこの機関の支部を設置すべし」との命令に基き(調達史六頁以下)同月二六日勅令第四九六号を以て占領軍との連絡に関する事務を掌るため終戦連絡事務局官制が公布せられ官制上終戦連絡中央事務局と同地方事務局が設けられた。昭和二〇年九月三日指令第二号第四部二にもやはり同様の連絡機関を設置すべしとの日本政府に対する指令がある(調達史七五頁)。中央事務局長官岡崎勝男は右官制直後に任命せられたが、地方事務局はまだ暫く開設せられず九月下旬以後になつて各地に設けられるようになつた(調達史一〇二頁)。

一方内閣は九月始頃より各地に地方長官や各省及び軍の出先の長をメンバーとする終戦連絡委員会を設け占領軍の受入準備を実行させたのである(調達史九七-一〇〇頁)。但しこの委員会は官制等の法的裏付のない行政措置として設けられたものである。

2 地方長官

調達につき各地方に於ける軍との連絡は主として前記連絡委員会(後には連絡事務局)が扱うが調達の実施は地方長官を中心として行われたのである(調達史九七頁)。国内法上特別調達庁が昭和二二年九月業務を開始するまでは地方長官が委任支出官となつて調達の責任者であり経費は日本銀行仮勘定を以て支弁せられた。このため各府県庁では昭和二〇年九月始より渉外課を設け知事を部長とする進駐軍受入態勢実施本部を作つて、これが準備をした。昭和二〇年九月下旬になつて各地に終戦連絡地方事務局が設置せられることとなつたが、これに伴い九月一九日内務次官より地方長官に宛て「地方における終戦事務に関する件」なる通牒を発し「終戦事務中渉外事項については外務部内派遣官これに当るべきも設営その他行政事項については終戦連絡地方事務局設置の如何に拘らず、地方長官が中心となり関係各庁の協力を得てこれが実施に任ぜられ度云々」といつている(調達史一〇二頁、一〇三頁)。以て地方長官が当時調達その他の終戦事務につき国の責任者であつたことを窺い得る。

三 京都における終戦直後の調達

1 調達官庁

京都に入るべき第六軍の受入に当るべく昭和二〇年九月始頃内閣より京都終戦連絡委員長を命ぜられた(調達史四八頁)公使中村豊一(同年十一月に東京外務省に転任)は外務大臣より「すべてのことは一任するからとにかく占領軍と摩擦や事故を起さぬようにやつてくれ」と軍の受入調達につき全権を委任され、又費用として日銀仮勘定にて数百万円の予備金を支出せらるることになつて各省より出向した約三〇名の部下と共に九月七日京都に到着し直ちに京都府庁内に事務所を置き、地方長官及び各省や軍の出先の長をメンバーとする終戦連絡京都委員会を設けた(調達史四八頁)。

調達実施の責任者であり連絡委員会の最有力メンバーである京都府(府知事は三好重夫、昭和二〇年一〇月内閣副書記官長に転任)では他の府県と同様渉外課を設け知事を本部長とする進駐軍受入実行本部を置き連絡委員会と一体となつて受入を準備し実行した。

その後九月二二日になつて京都にも終戦連絡地方事務局が設けられ(調達史一〇二頁)連絡委員会の機構を引つぎ連絡委員長中村豊一が局長に任命せられたが仕事の方は事務局の名を用いず依然として委員会の名を以て行つた。委員会の方が各省を網羅していて都合がよかつたからである。事務局の名を以て活動するに至つたのは昭和二一年になつてからである。

2 占領軍の進入

京都には中部地方以西全土を占領する米第六軍の司令部が置かれることとなつた。九月一四、五日頃から先遣将校先遣部隊が逐次京都に到着し、九月二五日司令部が市内大建ビルに置かれ(調達史一九頁)、和歌山に上陸した航空機戦車を伴う部隊数万が一〇月五、六日頃京都に入り、一〇月一〇日司令官クルーガー大将が到着した。尤も第六軍はアメリカの政策変更により同年一二月三一日廃止され以後は第八軍が日本全土を占領することとなつた(調達史一九頁)。

3 調達の実施と日本調達官憲の自主的活動

京都府の受入実行本部では既に進駐の開始された横浜地区に係官を派遣し、占領軍の受入状況を調査せしめ受入にいかなる物資不動産が必要かを予め調査していた。占領軍は食糧は携帯していたので調達はまず不動産から始められこれらは兵舎、司令部、病院、慰安施設等として利用せられた(調達史三九頁)ので京都府ではこれらに適当な建物を予め調査し各種施設の提供案を準備していた。九月一五日頃第六軍の先遣将校大佐二名が京都に到着し連絡委員会と協議し所要不動産の調査及下検分を実行した。以後委員長は毎日係官と共に軍に赴き軍の要望に基いて各方面と連絡協議し府と共に接収すべき建物を使用者に伝へ又所有者より受領して軍に引渡し或は所有者をして直接軍に引渡さしめた。

京都に限らないが当時世人は占領軍によつて如何なる危害が加えられるかと戦戦競々としており占領軍来ると聞いて婦女子は地方に疎開するものもあつた。当時滋賀県の捕虜収容所を解放せられた捕虜が京都市内に流入して相当みだらな行為があつたので市民婦女子の内には恐怖心を抱くものも生じて来た。又京浜地区の婦女子に対する暴行も誇大に報道せられたため京都においては第六軍の進入に対する恐怖よりして難を地方に避ける者も生じ、京都府においても婦女子の避難命令を用意し一〇月の始め第六軍の本隊が進入したとき京都の目抜通りは全部店頭を閉鎖し業務を休止して市街は一時寂莫となつたがその後司令部よりの希望に依り平常状態に復帰した。この間中央政府よりは軍の受入事務につき特別の指示援助もなく地方の裁量に一任する状態であつたので京都の委員会及び府は中央に頼ることなく専ら進駐軍兵士と市民との間に衝突等の事故を起さないように占領軍の命令には誠意を以て応ずるのみならず進んで市民の協力を要請する態度を以て被接収者及び占領軍に接したのである。注意すべきは京都の建物接収において委員会が当初より軍の信用を得たため軍は委員会の方針を全面的に受け入れ府が作成し委員会を通じて提出した各種施設の提供案が殆んど其のまま軍によつて受諾せられ(調達史四八頁)委員会及び府は所有者使用者に交渉してその承諾を得立退かしめた上軍に引渡していたのである。軍が直接民間人より接収するような例は京浜地区その他に比し少く成績良好であつた(調達史四八頁)。接収について軍、委員会、府及び被接収者間に文書が作成せられることはなく全部口頭であつた(調達史六一頁)。

所有者使用者と交渉するについて大きい建物の場合には委員長或は知事が直接所有者使用者を呼んで「今般軍で貴殿の建物を使用することになつたから承諾して提供して欲しい。損害についてはこれを国で買うのか賃借するのか今はまだ決らないが国民全体が責任を負うべきもので貴殿だけが負うべきものでないから後日国費で補償する」と述べ場合によつては金若干を交付し「取敢えずこれだけ渡しておく」とて使用料の前渡しをし、平穏裡に承諾を得たのであつて強権を仄めかすような必要はなかつた。

4 補償の約束

京都委員会(府を含む)が建物を調達するについて前記の如くその方針として被調達者に補償を約束したのは徴発乃至調達が法理上補償を伴うものであるとの条理に基いたのみでなくこれをしなければ調達が円満迅速に行かないと云う占領開始当時の絶対的必要に基いたものである。この措置は財産権不可侵を宣言する近代憲法より見て当然の常識であつたのみならず、スキヤツプインA七七(第二章一の3)によつても裏書された。又外務大臣が終戦連絡京都委員長のために日銀仮勘定を設けて資金を交付し且つ事故を起さぬよう円満に受入れ実施を訓令したのはかかる場合等を予想してのことであろう。

又中村委員長は前記の如く委員会の代表として外務大臣より受入れ準備に関して訓令を与へられたのであるから委員会(府を含む)はかかる超非常時に際しては一々請訓することなく調達実施に必然伴つて来る補償に関しても善処する権限を外務大臣より受けていたものと云わなければならない。又知事は一般に国家調達の責任者であるから、この面からして調達に必然伴う補償契約(売買、賃貸借、損失補償契約)をする権限があつたものと云わなければならない。

京都地方において大建築物の調達は本件のみでなく他に多数あつたが委員会の約束した通りいずれも後日調達庁より相当の補償を得て問題は解決しているのである。ひとり本件のみは当初P・Dの発出がなかつたこと(時期的に云つて当時はまだ調達は凡て口頭命令で行われた時代であつて後日制定せられた文書に依るP・Dのなかつたのは当然である)、又内容から見ても本件は建物の所有者とキヤバレー運営者が異るため調達庁で不動産の調達命令か役務の調達命令か迷つて居つて決定が後れたこと、又第六軍司令部が本国に引揚げて第八軍の管轄に移される等米国軍内部の大異動のために処理が後れたのである。連絡委員会側に於ても当面の責任者三好知事がまもなく転任し中村委員長も転任し不幸な条件が重つて遂に未解決となつたのである。三好知事は多くの建物調達につき、補償の約束をしてその後始末をどうするつもりであつたかと聞かれて、後日中央政府にかけ合うつもりであつた、又自分がもつと長く京都に在職したら本件歌舞練場の問題も必ず補償を得て早期に解決させたであろうと云つている。

第三章歌舞練場の調達

昭和二〇年九月末頃京都における調達及び治安の責任者京都府知事三好重夫と祗園新地甲部貸座敷組合取締兼京都八坂女紅場財団法人理事長杉浦治郎右衛門との間において財団法人はその所有に係る歌舞練場(広義)の土地建物(造作・家具・什器・備品付のまゝ)を進駐軍専用の娯楽施設(キヤバレーその他)に充てるため国に提供し国はこれに対し損失の補償をする旨の契約成立しその引渡がなされた。

一 祗園と国との間の調達契約成立の経過

昭和二〇年九月二〇日頃京都における治安及び調達の責任者たる府知事三好重夫は第六軍憲兵司令官ベルと会見した際予ての調査に基ずき教会、キヤバレー、遊廓等に充てるべき施設につき意見を述べたがキヤバレーに充てるに適当な建物として歌舞練場外一ケ所を挙げた。その直後の頃京都地区憲兵隊マクローベ中尉が部下十三名と共に歌舞練場事務所に来りグランドピアノ一台、ソフアー五台等を持帰つたがその際他日建物全部を取上げると云つて帰つた。九月二三日頃第六軍の憲兵司令部から京都府警察部に対し、歌舞練場(広義)又は南座を軍の専用娯楽施設として使用したいとの口頭命令があつた。命令の趣旨は軍の管理下に日本人ダンサーを使用するキヤバレーを日本人に経営さすこと及び軍専用映画館を運営することであつた。府では渡辺事務官が軍の命令を受け建物の調査に当りその結果軍ではキヤバレーに歌舞練場を使用し、弥栄会館を軍専用映画館とすることに決意し府にその命令があつた。

「甲第一一号証」は京都府渡辺照一事務官の証明書(昭和二九年七月二八日附)で軍の憲兵隊より府警察部を通じて歌舞練場が接収された事を述べている、尚同事務官は歌舞練場について他の接収と同様その後P・Dの発出があつたものと考えていたことが記されている。

又その頃別途第六軍調達部より連絡委員会に対し同趣旨の口頭命令があり歌舞練場を指定して来たので委員会では府に連絡すると共に係官をして検分せしめた。

「甲第一二号証」は委員会次長小沢武夫の右と同旨の調達庁長官宛証明書(昭和二九年三月二四日附)である。

九月二十四・五日頃府知事三好重夫は組合取締兼財団法人理事長杉浦治郎右衛門を府庁に招き「軍から申出があるのでキヤバレー、映画等占領軍専用の娯楽施設に充てるため歌舞練場(広義)を提供してもらいたい、軍の管理になり憲兵が立番をする、そして建物を改装してキヤバレーをやつて貰いたい」と言つた。杉浦は当方は学校法人でキヤバレー等と目的が違い建物は学校の教室、講堂に使用すべきものであり、又今財政苦しく改装等の費用はないし経験もないからとこれを承諾しなかつたのである。しかしついで警察部長青木貞雄より軍の要請を拒絶し得ない国内情勢や軍のため適当な慰安設備をしなければその被害が一般民衆の子女に及ぶことを説かれ、又知事よりキヤバンー等の経営が不可能ならば双方(府と祗園)で他に適当な者を見つけようではないか、だからとに角土地建物の提供だけは承諾して貰いたい、祗園の蒙る損害は当然国家で賠償するとの話があつたので法人の理事と組合の役員一同は数回会議を開き尚一方左記三の如く吉本がキヤバレー経営者となることを承諾したので遂に三好知事の説得に応じ九月末頃知事に対し歌舞練場の提供を承諾した。この提供契約について書面は作成せられなかつたし、賃料期間改装費等当然考えられるべき点についても何の取決めもなかつた。これは当時他の大建物の接収においても同様であつた。

「甲第一三号証」は三好元知事の祗園に対し施設の提供を命じ損害は国費を以つて賠償すると申渡した旨の大阪調達局長宛証明書(昭和二九年一月三〇日附)。

「甲第一四号証」は青木元警察部長の第六軍から命令があつたので祗園に対し施設の提供をするよう申渡した旨の大阪調達局長宛証明書(昭和二八年八月三〇日附)。

二 調達契約の性質

祗園が施設を提供するに対し三好京都府知事は国費を以て損失を補償することを祗園(組合及び法人)に約したのであるが損失を補償するとは祗園が自己で使用する場合と比較して受けるべき不利益を賠償する意味と解せらるるのであるから、本件契約は使用の対価たる賃料を包含するのみならず、改造その他による損害の補償契約を含んだ民法上の賃貸借契約である。しかして双方共占領軍の用に供せられることを予定しているから調達である。当時至上命令と考えられた軍の要請に基ずくものであり又祗園側としては拒絶すれば何等かの強権的方法で取上げられるか処罰等の不利益を受けるのではないかと考え止むを得ず承諾したものであるから、この意味において強権的なものを背後に感じながらした契約である。

三 祗園と吉本、吉本と国との各関係

祗園では知事警察部長等からの説得により結局娯楽施設経営か少くも建物提供を承諾せざるを得ないと考えるに至るやキヤバレー経営等娯楽施設運営者について後日進駐軍が撤退したとき円満に祗園に建物を返還して呉れる者であることを希望した。京都府と祗園との間ではまず松竹株式会社ではどうかとの話が出たが祗園は強力な同会社を希望しなかつた。そして祗園では関西興業界で知られた吉本(会社組織で吉本興業合名会社―その中心人物は代表社員林正之助)を希望し吉本に対し祗園に代つてキヤバレー経営等娯楽施設の運営をして貰いたいと繰返し頼んだ。キヤバレー改装には当時凡そ一千万円の費用を要すると考えられており、実地を見せられた吉本の林社長はかゝる大規模のキヤバレー経営は経験もなく自信もないと中々これを承諾しなかつたのであるが、府から吉本に対しても切なる勧めがあり、三好知事から林社長に対し決して損はさせない改装費は国で負担するとの保証があつたので吉本も遂に承諾し祗園もほつとしたのである。

「甲第一五号証」は京都地裁昭和二四年(ワ)一八七号事件で被告吉本興業株式会社の提出した準備書面であり、「甲第一六号証」は同事件の弁論調書と証人松久憲司の尋問調書で共に祗園が繰返し吉本の林社長にキヤバレー経営を依頼し吉本が遂に承諾したことを述べている。

そして工事着手につき吉本の林社長は府知事や軍に対し所要経費の前払を求めた。軍憲兵隊では日本政府より支出すべしと云い知事は支出につきまで政府と折衝してないから取敢えず吉本で立替えて貰いたい、後日必ず補償するとのことであつた。そして十月初旬吉本の林社長は軍の命令による改造図面を三好知事に提示し「貴殿から工事促進につき頻々たる督促あるも改造費は将来国より支出して貰えることは相違なきか」と確めたところ責任を持つ旨の回答があつた(甲第五三号証の2項)。一方憲兵隊よりも工事促進の厳命が頻々とあつたので吉本は資金について当時臨時資金調整法によつて凍結せられていた火災保険金を特に同法により日銀に申請して解除して貰い(甲第一五号証第二の二)これを使用して工事の進行を始めたのである。

右の事実を法律的に見れば祗園及び府は吉本に対しキヤバレー等娯楽施設経営を委託(民法六四三条、六五六条)したものであり府は尚その他に吉本に対し改装費その他の損失補償を約したものである。

四 引渡

昭和二〇年九月末頃祗園は吉本に対し弥栄会館の一部(祗園側で当時組合の事務所に使用していた部分合計二七二坪余―甲第二七号証添附図面第三号四号五号の各赤色部分-この部分は吉本との合意によりその後も祗園側で使用することが認められた)を除きその他全部の歌舞練場(広義)の土地建物備品付を吉本に引渡した。吉本は十月始頃より使用人を茶席に宿泊させて常駐させ軍憲兵隊の指示により建築業者を入れて歌舞練場(狭義)の大改装と弥栄会館の改修に取かゝつた。引渡しは調達の性質上(第二章一の2の末尾)祗園より府又は軍に、そして府又は軍より吉本に引渡してもよいし又祗園より吉本に引渡してもよいのであつて祗園・府・軍・吉本間において吉本が改装の上運用することとなることが明であつたので全関係者了解の上で祗園から直接吉本に引渡したものであり、祗園としてはこれにより府に対する提供を実行したこととなるのである。

五 調達直後の祗園と吉本との関係

祗園と吉本との関係は本来祗園が現存設備を提供しこれを改装して娯楽施設の運営をするよう命ぜられたのに、祗園は設備の提供のみを実行し残部を吉本に懇願依頼して実行(娯楽施設の経営)して貰うというにあるのであつて、いやな仕事の一部を委託してやつて貰う即ち経営の委託であり、吉本からすれば本来祗園のなすべき事を祗園に代つてしてやるということになる。祗園や吉本の当事者もかく両者の関係を考え口頭で表現していたのであつて吉本の林社長も口癖のように祗園に対し自分の方は元来貴方のやるべきことを代つてやつてやつたのであるから感謝して貰わなければならぬと云つており祗園もこの点同感であつたのである。昭和二四年祗園が京都府に提出した陳情書(甲第二六号証第二文の終)にも祗園は吉本に経営を委託したと記載せられている。即ち祗園と吉本とは合体して軍の要求を満足させたのでありこの意味においては共同事業の遂行である。これらの点からして吉本より祗園に対し改装費は祗園で負担すべきだとの話があり、祗園では財政が苦しいからとにかく一時吉本で支出して貰いたい。負担は国から補償もある筈であるし祗園、吉本のどちらに補償があつても吉本の一方的負担にならないよう考慮しようということであつた。

見方によれば祗園は自己の責任において吉本に経営を委託したのであるから吉本の失費を賠償する義務がある。そしてかく見れば吉本は祗園に請求し祗園は国から改装費の補償を受けるのが筋となり、従つて国から吉本に補償があるか祗園に対してあるかは祗園、吉本ともよくわからなかつたのである。契約書(甲第一七号証の一の四項)にも改装費は吉本の負担とすると書かれているが、これは終局的には国より補償があるにしても差当り改装費を祗園で負担するか吉本で負担するか問題になつたからである。但し改装費を差当り吉本が負担することは原則であつて始から祗園の負担する約束の部分もあつた。即ち弥栄会館について暖冷房装置及びエレベーターの取付費用の半額(甲第一七号証の二の二項)、観客用椅子の取付(甲第一七号証の二の五項)ペンキ塗、土間直し費用を負担することゝなつた、これらの費用は後記の如く祗園において実際昭和二〇年十二月頃合計約八〇万円を支出した。又全建物の屋根の修繕は今後とも祗園の負担とする約であつた。

祗園としてはかく全建物全設備を徴用せられて無収入となるのみならず改装費の一部屋根修繕費をも負担し税金保険料の支払もしなければならず困難な財政が更に悲惨なことゝなるに拘らず政府の本件処理(例へば賃貸借)がなかなか決定しない状態であつたので十月中頃吉本に対し将来キヤバレーや弥栄会館の映画開業の上は日銭も入るであらうからせめて一ケ月二、三万円位支払つてほしいと申入れ折衝の結果十月三十日吉本が祗園より既に引渡を受けた全設備を祗園より賃借する形を作り賃借料の形で年三十万円を祗園に支払う合意が成立し契約書が作成せられた。

「甲第一七号証の一」は祗園吉本間の昭和二〇年一〇月三〇日附契約書「甲第一七号証の二」はこれに附属する両者間の覚書である。この契約書において祗園は賃貸人を貸座敷組合代表者杉浦治郎右衛門と表示しているが、これは要するに祗園代表者杉浦治郎右衛門という意味であり法律的には組合兼法人代表杉浦治郎右衛門の意味である。契約書の文言は祗園側で作成したものである。

当時占領は十年という俗言があつたので契約期間は十年とし占領がそれよりも短期に終つたときはそのとき返還する約束であつた。(契約書中「国策の変更により当初の目的達成不可能となつたときは双方紳士的に之を解決するものとす」とはこの趣旨で文中に占領の終了を謳うことは不穏当と危惧せられたからである。)

この賃貸借が賃借物使用の正当な対価を受領するという通常の賃貸借でなく名のみの賃貸借であることは右成立の経過と公正証書も作成しなかつたこと等よりして明であるが、又何よりも権利金保証金のないこと、賃料の特に少額なこと及び歌舞練場(広義)は祗園にとつて歴史的に婦女の教育場都踊り会場として絶対必要の場所設備であり何物にも代えられず自由意志によつて他人に使用権を与える筈のない物件であることからしてこれを推察せられたいのである。

賃料年額三〇万円を定めるについて当事者は他の何等かの標準に基いて算定したものでなく只何となく決めた額である。通常の賃貸借であれば権利金四〇〇万円、賃料年額二四〇万円以上のものと考えられる。何となれば吉本は昭和二〇年一二月歌舞練場(狭義)の一部約一四〇坪を後記(第四章二の1)の如く安宅産業株式会社に権利金二〇万円、賃料一ケ月金一万円で転貸したのであつて吉本が祗園より借用した建物延坪三〇五〇坪(祗園の全建物延坪三三二〇坪-第一章二の冒頭-より吉本に引渡さなかつた二七二坪-第三章四-を控除したもの)は右転貸部分の二〇倍以上でありしかも吉本が祗園に貸したのは建物だけでなくグランドピアノ二台高級机、椅子数百点等莫大な備品付のまゝであつたからである。

「甲第一八号証の一」は京都地方裁判所前記訴訟事件の被告柴原政一の提出した準備書面副本「甲第一八号証の二」は右第一八号証の一の附属文書で吉本と安宅産業株式会社との転貸借契約書写である。甲第二七号証と相まつて右に述べた部分を吉本が安宅に権利金二〇萬円、賃料一ケ月金一萬円で転貸したことを立証する。

この形のみの賃貸借によつて祗園は吉本より賃料として昭和二〇年一一月頃昭和二一年一一月頃各金三〇萬円、昭和二二年一二月金二十五萬円(八坂クラブの返還を受けたので五萬円割引)合計八五萬円を受領した。その後は吉本に対し建物の返還交渉に入つたので受領していない。

第四章調達後の娯楽設備と経営

一 設備

歌舞練場調達の目的は前述の通りキヤバレーと映画にあつた。そしてキヤバレー経営のために憲兵司令部の指示によればまず物的設備として歌舞練場(狭義)の改装工事と人的設備としてダンサーその他の従業員の用意を要し、映画のためには弥栄会館に観客用椅子設置その他の設備を要した。軍では一二月二四日のクリスマスに開場できるようにせよと吉本に対し突貫工事を命じた。

1 歌舞練場の改装

細部に至るまで軍の指示命令に従い吉本は建築工事関係を木村組に電気工事関係を弘光電気商会に施工させ、十月始頃より突貫工事を始めた。物資不足の当時木材釘等の資材については特に府の特配をも受け資金繰りに苦しみながら約三ケ月を要してこれを仕上げ一二月二七日キヤバレー「グランド京都」として府軍等立会の盛大な開場式をするに至つた。

主要な改装は「便所を洋式にする、事務所及びクロ-クルームを作る、庭を改造する、格天井を壊してベニア板ペンキ塗天井にする、玄関に新しい格天井を作る、講堂の花道を取払う、舞台を二間幅切取る、約三〇坪の棧敷を作り(テーブルを置いて飲酒の席とする)四本柱を各所に立てる、テイールーム、変電室、暖房機械室を設ける、ダンス場下段一〇〇坪上段七〇坪に床を張る」とこれに伴う電気工事及び照明の電気設備等である。工事材料千余萬円相当は吉本が調達し木村組弘光電気商会には材料費の価格に応じた工事手数料を支払つた。その後営業開始後にも軍の命令によつて度々模様替改装が行われ多少の修理費も含め工事費四、五百萬円の支出が行われた。従つて支出は合計凡そ千五、六百萬円である。これによつて歌舞練場は純洋式の大キヤバレーに改修され従来の用途たる都おどりの会場に使用することは不可能な状態に模様替された(甲第五三号証の四項、甲第一五号証の第二)。

「図面五」は改装後のグランド京都平面図(三〇〇分の一)である。舞台や観客席の改められた模様を立証する。昭和二三年皆川工務店が実地に基ずいて作成したものである。尚吉本が使用した改造図面があるとよいのであるが吉本では調停成立し事件が片付いたゝめ関係書類を整理廃棄し残つていない。

「図面六」は右図面五の拡大図(二〇〇分の一)で昭和二九年大成建設の作成したものである。

「図面七」はグランド京都断面図(一〇〇分の一)で昭和二九年大成建設が昭和二三年作成の図面に基ずいて複製したものである。

2 人的設備

食料難の当時新聞公告によつて集つた数千人の素人婦女子の中から軍がダンサー三〇〇名(大規模であることを想像せしめる)を採用しこれを多く八坂クラブに寄宿させ軍の下士官がこれにダンスを教え又ダンサー外の従業員数十名も用意させた。

3 弥栄会館の改修

やはり軍の指示によつて観客用椅子及びエレベーターの設置、ペンキ塗、土間直し、暖房設備、地階にダンサー更衣所身体検査室設置等の工事が昭和二〇年一二月迄になされた。費用凡そ百数十萬円で内観客用椅子七一〇人分取付費一七萬円、エレベーター取付費の半額一〇萬円ペンキ塗費四〇萬円土間直し費一〇萬円合計七七萬円は祗園が負担して昭和二〇年一二月これを吉本に支払つた。

二 経営

昭和二〇年一二月末から吉本の経営が開始された。

1 キヤバレー以外の運営

当初軍の方針では弥栄会館を軍専用の映画館とする豫定であつたが昭和二一年始頃映画は他所で行われることとなつたので弥栄会館は吉本が一般人向の映画館として経営した。但し地下はグンサー更衣室身体検査室等として吉本が使用した。

別紙第二目録の歌舞練場の建物中「二階建休憩室一六二坪六合二勺外二階坪一三〇坪七合四勺」の一階の部分中二三坪余(甲第二七号証添付図面第一号緑色の部分)を除いた約一四〇坪は吉本より安宅産業株式会社に転貸され同会社において半分をシヨールームと称し、進駐軍向け雑貨及び貿易品の展示販売に使用し半分をプルニエと称し洋食堂を経営した(甲第二七号証、第一八号証の一、二)。又茶席は吉本の従業員の居住に使用され、八坂クラブはダンサー宿舎とその検診所に使用せられた。

2 キヤバレーの経営

狭義の歌舞練場中前記シヨールーム、プルニエを除いた部分(図画一で赤線を以て囲んだ部分)でキヤバレーが行われたのである。この経営は強度の軍管理下にあり軍の直営であつて、吉本は労務を提供し、労務管理をしたに過ぎない。事業経営というには遙かに遠く多くの赤字であつた。

軍管理について述べると、軍の憲兵七、八名が常駐し玄関に三、四名居て出入者を監督し日本人の出入を許さず、常駐の他の憲兵は開業、終業の時間を定め経営全般の監督をし、衛生監督、販売物品数量検査帳簿の点検等をした。又営業時間外でも日本人がダンス場に出入することは許されなかつたが、慈善の為めに特別に憲兵司令部の許可を得て一、二回使用を許されたことがある。即ち憲兵の占有にあつたのである。それで日本の警察権はこれに及ばず、勿論日本の警察より営業許可を得ることはなかつた。又キヤバレー営業は日本人の一般営業と異り入場税、飲食税が課せられなかつた。日本側税務署に於ても米国軍施設として認めて居つたが、これは軍の占有下にあること及び営業の実体は吉本が単に労務を提供した点からしても当然であつた。

「写真五乃至八」はキヤバレー営業初期の当時(昭和二二年頃)キヤバレー支配人浅野渡の撮影したものの複写で、写真五は正面玄関(立つているのはMPと日本人通訳)、写真六はホールとステージ(ステージは旧舞台の一部を切取つたものでバンドがこれにおり時にシヨウも行われた)、写真七は客席で坐せるは客とダンサー立てるは通訳である。写真八はホールにおけるダンスの実況。

「甲第一九号証」は昭和二三年八月二九日(日曜日)昼間に早稲田大学同窓会がグランド京都で大学複興資金募集のダンスパーテイを開催するについてホール使用の許可を憲兵司令部に願出た申請書原本でこの申請書左上部に憲兵の許可(O・K)が手記(書証写では赤鉛筆で囲んである)でなされている。

「甲第二〇号証」は右と同様同年六月四日北陸震災義捐金募集パーテイがグランド京都従業員一同によつて行われたときのホール使用許可請求書でその下部に許可の手記がある。但しこれは原本紛失し写のみがあるので写しを原本として提出する。

「甲第二一号証」は当時の京都府行政警察課長別府慶一の調達庁長官宛証明書(昭和二九年七月一九日附)でグランド京都について日本の警察権が及ばなかつたこと及び警察の営業許可のなかつたことを述べている。

「甲第二二号証」はグランド京都に入場税飲食税が課されなかつた旨の京都府東山府税事務所長の証明書(昭和二九年三月二三日附)。

吉本の収入は入場料(一回一〇円)ビール一本の売値七円の手数料若干、ダンス券の四割(六割はダンサー)のみで他の飲食物(コラ、ピーナツ類)はドルの軍票で支払われ吉本は無手数料であつた。

そしてこれら吉本の収入となる料金代金は憲兵司令部で一方的に極端に安く決閧オ屡々の値上陳情も許可されなかつた。吉本は経営困難となり廃業を申出たが他に代るべき施設がないとて許可されなかつた。又改装費用についても吉本より軍に補償の陳情をしたが黙殺された由である。

「甲第二三号証」は昭和二三年五月グランド京都から憲兵司令部に対し入場料とチケツト代の値上を申請した申請書類の控(原本は軍へ提出)で昭和二三年四月一箇月の経営は一五万余円の損失であつたこと、営業開始後二年半に物価は凡そ一〇倍になつたのに入場料等が据置になつていることを述べている。この書面による正式の申請前に口頭の申請は何度もなされたのである。

三 調達形式の検討

以上キヤバレー経営の実体とその後整備せる調達規則から見れば軍や国が本件調達の目的を達するには(イ)祗園より土地建物設備を調達し吉本とのサービスコントラクトによつて行うか或は(ロ)経営につき軍の関与しない営利的基礎に立つ全くの自由営業で行わせるべきであつた。

四 日本人のキヤバレー入場許可

京都は第六軍司令部の所在地として附近に大部隊の駐留を豫定せられていたがアメリカ政府の方針変更によつて昭和二〇年一二月末日第六軍は廃止せられ日本全国は第八軍のみによつて占領せられ京都は第八軍の第一軍司令部所在地となり駐留兵も逐次減少し本件のような大規模の慰安設備は過剰となつた。入場者も減少し、吉本の経営は更に苦しくなつたので吉本は昭和二三年頃より軍に対し日本人の入場を許可するよう陳情しこれが許可せられて昭和二四年四月一日より日本人の入場が許可されるに至つた。しかし日本人の入場者は僅少であつた。日本人の入場が許可されるようになつてからは対日本人の関係においては料金は自由営業となつたが対占領軍人の関係では従前と変りなく依然憲兵も常駐し管理した。

日本人の入場許可は軍専用の解除ということは云えるであろうが調達の解除を意味しない。従前祗園より調達庁に提出した陳情書等に調達の解除の如く記されている部分のあるのは理論上の誤解である。

「甲第二四号証」はキヤバレー支配人浅野渡の日本人入場許可のあつた旨の大阪調達局長宛証明書(昭和二九年三月二〇日附)である。

第五章祗園の歌舞練場回復(調達の終了)

一 吉本興業合名会社と吉本興業株式会社

吉本興業合名会社は昭和二三年七月解散しその財産及び事業を吉本興業株式会社に移転し従つて歌舞練場の占有及びその運営も移転した。(甲第一五号証第二七号証)

二 八坂クラブ(大部分)の回復

戦後の秩序が回復し祗園も昔日の状況を回復するにつれ祗園では接収された建物を旧来の用途に使用する必要切なるものがあり、その回復を切望するに至つた。そこで昭和二二年中頃吉本に対し吉本で大して使用しなくなつた八坂クラブの返還を請求した。吉本は軍の指示を求めた上これを承諾し、一階の一部一三坪余の一室(甲第二七号証添附図面第二号緑色の部分)を除きこれを祗園に返還した。爾来祗園はこれを学校の事務所及び教室として使用している。

三 軍及び府に対する陳情

昭和二十二、三年頃よりひとり祗園のみならず京都の府市観光連盟等観光京都の側からも伝統の都おどりを復活すべしとの声が高くなつたが、その会場として最もふさわしい歌舞練場を接収されたため祗園はやむを得ず昭和二五年二六年二七年の三回松竹株式会社より南座を借りて都おどりを復活公演した。しかし早くより祗園は何とかして歌舞練場及び弥栄会館を回復したいものと考えており、又昭和二三年一〇月京都観光連盟と商工会議所が連合して都おどり復活委員会を組織し軍に建物の返還を陳情した。祗園では昭和二三年末頃吉本が軍に対し軍専用解除、日本人の入場許可を申請した(第四章の四)と聞きこれが許可せられては元来軍の専用に供するからということで貸しているのに専用でなくとも吉本に使用され文句を云わないようでは吉本に対する回復請求の理由を失い回復が遅延すると考え、祗園はその頃組合取締杉浦治郎右衛門の名において第一軍政部長に対しこの建物は当組合の所有であり将来都おどり会場として使用したいのであるから、吉本の申請を許可しないようにせられたいとの日本文陳情書を提出した。しかしこれは効果なく日本人の入場許可のあつたことは前記の通りである。

「甲第二五号証」は組合取締杉浦治郎右衛門の名において第一軍政部長に提出した陳情書の原稿である。

祗園は又吉本に対しても建物返還の交渉をしたのであるが埓明かずそこで昭和二四年初頃組合取締杉浦治郎右衛門の名において京都府知事に対し吉本に建物を使用させたのは府の責任であるから府の責任において建物返還を解決して貰いたい旨の陳情をしたがやはり効果はなかつた。

「甲第二六号証」は昭和二四年始頃組合取締より京都府知事に提出した陳情書

四 訴訟及び調停

1 訴訟

昭和二四年三月たまりかねた祗園は財団法人が原告となつて吉本興業株式会社及び柴原政一(安宅産業株式会社の使用人でプルニエ営業名義人)を被告として京都地方裁判所に建物の返還訴訟を提起した(同庁同年(ワ)第一八七号家屋明渡請求事件)。柴原に対してはシヨールーム及びプルニエの部分、吉本に対してはその他の部分(歌舞練場、弥栄会館、八坂クラブ)に対する明渡を求めた。この訴訟の請求原因の要旨は祗園は吉本興業合名会社に貸したのに無断転貸で吉本興業株式会社及び柴原政一が使用しているのは不当であるというにある。

「甲第二七号証」は右訴訟の訴状副本。

これに対し吉本の主張の要点は吉本合名と吉本株式とは林正之助の主宰する世間の所謂吉本で同一というべきものである、又吉本は改装費に千数百万円(時価五千万円)を投じているから祗園がこれを弁償しないで返還を求めるのは権利の濫用であるというにあつた(甲第一五号証)。

2 調停

訴訟は昭和二五年調停に付せられ(同庁同年(ユ)第五二号)調停委員として特に京都の名士三名、元京都副知事田村義雄、商工会議所会頭中野種一郎、観光連盟会長富森吉次郎が選任せられ鋭意調停の結果昭和二六年一一月一九日調停が成立した。調停には新に設立せられた学校法人八坂女紅場学園が利害関係人として参加した。

調停の内容の要点は(1) シヨールームプルニエの部分については吉本はこれを祗園(財団法人及び学校法人)に返還し、祗園は更に安宅産業株式会社に昭和三〇年まで税金、火災保険料を負担させるだけで使用させること、(ロ)吉本はその他の部分を祗園に対し昭和二七年一月末日限り明渡すこと、(ハ)祗園は吉本に対し改装費補償として金三〇〇〇万円を支払うというにある。調停条項は一方の当事者を財団法人及び学校法人とし他の当事者を吉本株式会社としているが、財団法人は既に清算中で財産はすべて学校法人が承継したのであるから一方の当事者は実は学校法人のみであり、又吉本株式は吉本合名の財産を承継したのでありこれら当事者の点は双方共かく納得了解の上調停が成立したのである。

その以前祗園は軍政部と憲兵隊に対し建物の返還を申請し、憲兵隊は自己に対する申請を軍政府に移牒した。軍としても大規模キヤバレーの必要はなくなつてきていたので右調停につき吉本より指示を仰いだとき調停により建物を祗園に返還することを許可した。吉本の明渡というも歌舞練場(狭義)については実質は軍の占有であるから軍からの明渡に外ならないのである。

3 調停の経過

調停の経過としては建物を都おどり復活のため又祗園の古くよりの本拠である点から祗園に返還することはまず意見の一致を見た。しかし吉本側では祗園及び府の依頼により祗園に代りキヤバレー経営をしたため、多大の支出をした。歌舞練場弥栄会館の改装に千七、八百万円の支出をしておりキヤバレー経営は数百万円の赤字であつた。又改装費については祗園も将来これが負担を考慮する約束が吉本と祗園間にあつた(第三章五)のである。よつて少くも改装費原価のうち一五〇〇万円を、その後の物価騰貴を加味して少くも三倍の四五〇〇万円と評価しこれを支払つて貰いたいと主張した。祗園側では吉本の右主張する点は調査の結果すべて認める、殊に自分でキヤバレー経営をしなければならないところを吉本に代つてやつて貰つて助かつたことは事実であるが、祗園側も接収によつて多大の損失を受け財政困難であるから改装費は当時の原価一五〇〇万円の限度で、この一五〇〇万円は祗園でキヤバレーを経営しても必要な経費原価だつたのだから、認めようというにあつた。そして調停委員の一年余にわたる斡旋によつて三千万円で調停が成立したものである。但しこの三千万円をそのまゝ改装費として調停調書に記載するときは課税される恐れがある(改装原価が一五〇〇万円なのに三〇〇〇万円受領することになるから)というので調書面では、(イ)弥栄会館について昭和二七年二月より賃借契約の終期、昭和三〇年一〇月まで(四五箇月)、毎月金三三万円(賃借権残存期間中営業によつて得べき金員、造作設備代金、造作設備に対する残期間の賃貸料)合計一四八五万円を支払い、(ロ)歌舞練場(狭義)の立退料並に造作及び設備等の譲渡代金として一五一五万円(この額は真の譲渡代金でなく只三〇〇〇万円より右の一四八五万円を差引いた数字にすぎない)を支払うと表示されたのである。

祗園は調達庁より補償を得てそれで吉本に支払いたかつたのであるが、調達庁の手続は従来も一向はかばかしくないので後廻しとし、とに角吉本よりの建物返還を急ぎ調停に応じたのであり、吉本も国に補償を請求したのでは始末がいつのことかわからないので、祗園に対し改装費を貰いたいと主張したのである。

「甲第二八号証」は調停委員三氏の調停の経過についての証明書(昭和二九年一月三〇日附)で三〇〇〇万円は改装費の補償である旨を記している。

「甲第二九号証」は調停調書謄本。

4 調停の実行

この調停に基づき祗園(学校法人)は松竹株式会社、京都信用金庫等より金借して吉本に対し昭和二七年一月二〇日金五〇〇万円(甲第三〇号証)、同月三一日金一五〇〇万(甲円第三一、三二号証)を支払いキヤバレーを事実上廃業していた吉本は一月三一日全建物を祗園に返還した。残金については祗園は昭和二七年九月一日金五〇〇万円(甲第三三号証)、昭和二八年七月三一日金二五〇万円(甲第三四号証)、昭和二九年七月三一日金二五〇万円(甲第三五号証)と分割して支払つた。歌舞練場は目もあてられぬ荒廃のまま返還されたのであつて、椅子その他の備品はすべて滅失し、吉本の改装によつて価値を増した点は皆無である。

「甲第三〇乃至三三号証」は吉本の調停金領収書。この領収書は財団法人及び学校法人宛となつていて両法人が支払つたように見えるが、これは調停調書上の支払義務者が両法人と表示されているためであつて、実際の債務者は学校法人であり実際支払つたのも亦学校法人である。

「甲第三四、三五号証」は祗園(学校法人と組合の連名)が吉本に宛て振出した各二五〇万円の約束手形、この手形が支払われた(裏面)ことにより各二五〇万円の弁済がなされた。

「写真九乃至一六」は昭和二七年三月頃歌舞練場の内部を祗園で撮影したもので荒廃の摸様を立証する。写真九、一〇はホール及び舞台正面、写真一一はホール後面、同一二はホール天井、同一三乃至一五は休憩室天井、同一六は舞台裏である。

五 調達の終了

昭和二七年一月三一日の吉本より祗園への建物引渡によつて調達は終了したものと解すべきである。解釈によつては祗園は国に提供したのであるから国から返還手続を受けるまでは調達の終了とならないとも考えられるが、吉本より祗園への返還により調達が終了することは占領軍の了解許可するところであり。占領軍は日本政府の上にあつたのであるからこれにより調達は終了したと解すべきであろう。最初祗園より建物を提供したときは、府が当事者であつたのであるがその後府の責任者更替し、警察部の関係においても府はタツチせず専ら軍の直接命令によつてキヤバレーが処理せられたため返還の交渉についても祗園が前記(第五章三)の如く府に斡旋を依頼し無駄に終つたことがある外、祗園、吉本いずれも府に頼らず直接軍との連絡によつて事を処したのである。

六 調停金支払の法律関係

1 国の祗園に対する賠償義務

調停により祗園が吉本に三〇〇〇万円を支払つたことは祗園が知事の勧告によつて建物を提供し、これを回復するため蒙つた止むを得ない損害でその額も決して不当なものでない(左記3)から国は知事の補償の約束、徴発調達の法理及びスキヤツプインA七七により祗園に対しこれを補償する義務がある。

2 吉本の賠償請求権の祗園への譲渡、祗園の求償権

吉本は元来府知事との調達補償契約(第三章三)調達の法理及びスキヤプインA七七により国に対し改装費の支払を請求し得るのであるから、祗園より調停金(改装費用)を受取つたことは国に対する補償金請求権を祗園に譲渡したこととなる、又祗園が後日国より改装費につき補償金を得たとき吉本に分与するとの契約(第三章五)の事前の履行でもある。この意味において吉本は昭和二七年一月二〇日祗園に対し後日祗園が政府より改装に関し、補償を受けたときその補償金は祗園に属することに異議なき旨の念書を差入れたのである。

「甲第三六号証」は吉本興業株式会社の昭和二七年一月二〇日附念書

又見方によつては祗園は国の吉本に対する補償債務を国に代つて弁済したこととなるので、国に対し求償権を取得したこととなる。

3 国の賠償義務の額

右2の見地に立つ場合吉本より祗園に譲渡された補償請求権の額は昭和二四年一二月二七日閣議決定使用解除財産処理要綱第六項の精神により改装費支出当時の金額に使用解除当時の物価倍率を乗じて得たものとすべきであり、日銀卸売物価指数は昭和二〇年を一とした場合二一年は五・六、二二年は一七・九、二三年は四三・六、二四年は六一・六、二五年は七五・八、二六年は九九・一、二七年は九七・六、二八年一〇〇である(調達史七五二頁、八九表、七五〇頁)からその要償額は莫大なものとなる。但し右卸売物価指数は公定価格あるものは公定価格によつているのであり、実効価格より見ればこれ程の倍率はなく、甲第二三号証の二枚目物価表等より見て昭和二〇年を一とすれば昭和二七年は一〇倍位と想像されるから、改装費原価少くも一五〇〇万円について国は祗園に対し一億円以上の賠償をする義務がある。この点から見ても祗園が吉本に対し原価一五〇〇万円以上の改装費に対し三〇〇〇万円の支払をしたのは決して不当過大でない。

「甲第三七号証」は使用解除財産処理要綱。

第六章祗園の損失

祗園は建物を改造され数年間使用不可能であつたため多大の損失を蒙つた。このため祗園は多額の負債を背負い永く財政困難に苦しまなければならないこととなつた。

一 祗園の支出(約二億円)

法律上損失となるか否かを問わず一応調達に関係ある祗園の支出を左に挙げる。凡そ二億円となる。この間収入は吉本より受取つた賃料八五万円(第三章五)のみである。

1 調停金の支払(三千萬円)

祗園は建物の占有回復のため約三年間の抗争の末調停により止むを得ず吉本興業に対し前記の如く三〇〇〇萬円を支払つた。

2 歌舞練場(狭義)の復旧工事費(一億二千二百余萬円)

歌舞練場は改造されひどい荒廃のまま返還され都おどり会場に使用することが不可能なので祗園ではこれが復旧工事をしなければならないこととなり、府市等の協力を得八方奔走して約二十の銀行団から八七〇〇万円の協調融資を得ることとなり復旧工事にかかつた。

「甲第三八号証」は大成建設株式会社の協調融資のあつた旨の証明書(昭和二八年八月附)。

(イ) 大成建設株式会社施工分(九八六一萬余円)

昭和二七年八月学校法人は大成建設株式会社と代金八九四萬円で復旧改修工事請負契約(甲第三九号証)をし、更に昭和二八年三月同会社と代金六五〇萬円で電気追加工事請負契約(甲第四〇号証)をし(両契約で代金合計九五九〇萬円となる。主な項目は改修工事六二四〇萬円電気工事一六五〇萬円である)、同建設会社は昭和二七年九月頃着工し昭和二八年三月末竣工した。これにより歌舞練場は、同年四月の都おどりから又使用し得るようになつた。右追加工事の外にも多少変更があつて同会社への工事代金合計は九八六一萬七九〇二円となりこれは昭和二七年八月より同二九年八月までの間に支払つた。

「甲第三九号証」は祗園と大成建設間の工事請負契約書(昭和二七年八月附)

「甲第四〇号証」は同じく電気追加工事請負契約書(昭和二八年三月十四日附)

(ロ) 電気及び照明設備工事(代金一二五〇萬九三〇五円)をバグナル株式会社外一名になさしめ代金を昭和二八年四月より昭和二九年六月までの間に支払つた。

(ハ) 場内装飾(代金三八四萬九七五三円)、舞台装置(代金二六五萬一一四〇円)、暖房装置外(代金四二五萬五〇〇〇円)合計一〇七五萬五〇九三円を大丸外数社に施工させ代金を昭和二八月一月より昭和二九年六月までの間に支払つた。

(ニ) 復旧工事代として右(イ)(ロ)(ハ)一億二一八八萬三一〇〇円を要した。

「写真一七乃至一九」は昭和二八年三月復旧工事竣工の際披露記念に大成建設で撮影したもの、写真一七は場内正面、写真一八は場内後面、写真一九は入口廊下である。

3 公租公課及び火災保険料(一千萬円以上の見込)

接収より返還まで即ち昭和二〇年一〇月より歌舞練場(狭義)及びその敷地(シヨールームプルニエ部分を除く)については昭和二八年三月まで、八坂クラブ及びその敷地については昭和二二年六月まで、その他については昭和二七年一月までについて公租公課及び保険料の額を調査中であるが一〇〇〇萬円を超える見込である。

4 都おどり会場借用費(約一千萬円)

祗園では昭和二五年二六年二七年の三回松竹株式会社より四条の南座を借りて春の恒例都おどりを公演したのであるが昭和二五年度分については開催日一日につき一〇萬円、三〇日で合計三〇〇萬円を借料として松竹に支払つた(甲第四一号証)。

昭和二六、二七年度分については松竹よりの申入により松竹との共同事業とすることとし興業収入の六割を祗園、四割を松竹が取得することとなり更に松竹は祗園に代りプログラム売却その他を営業することに改められたがこれらは昭和二五年度分よりも松竹に有利であり従つて祗園は松竹に対し開催日一日につき一〇萬円以上を支払つた勘定となる。そして昭和二六、二七年度は開催日各四〇日間であるから合計八〇〇萬円以上を昭和二六、二七年度分につき松竹に支払つた勘定となる。

「甲第四一乃至四三号証」は祗園と松竹との都おどり興業についての契約書である。甲第四一号証は昭和二五年度分(昭和二五年一月二〇日附)、甲第四二号証は昭和二六年度分(昭和二六年三月附)、甲第四三号証は昭和二七年度分(昭和二七年三月一日附)

5 改修修理費(約百萬円)

弥栄会館の改修費七七萬円(第四章一の3)その他屋根等の修理費若干を祗園は支出した。

6 借金の利子(四千萬円以上)

祗園は吉本に対する調停金三千萬円復旧工事費一億二千余萬円を銀行その他より金借して支払つたのでありこの利子だけでも年間約一千萬円を超え今まで合計四、五千萬円となり祗園の財政を困難ならしめている。

二 祗園の損失(二億七千萬円以上)

法律上の正確な損害につき考察する。

1 調停金の支払(三千萬円)

三年間の抗争の末止むを得ず吉本に支払つた三〇〇〇萬円。但しこの点について祗園としては国に対し右調停金三千萬円の弁償に代え吉本より譲渡を受けた改装費補償請求権一億円以上(第五章六)の請求をすることもできるが差当りこれは主張しない。

2 歌舞練場復元に要すべき費用(六千百余萬円)

前記一の2の復旧費一億二千余萬円は現実の復旧工事費であるがこの結果は昭和二〇年当時の状況よりも改善された点があるのでこの額がそのまま祗園の純損失とは言えない。昭和二七年返還当時の状況(図面五乃至七、写真五乃至一六)より昭和二〇年当時の状況(図面二乃至四、写真一乃至四)に復旧するに要する昭和二七年当時の物価による費用が改装による復旧用純損失である。この純損失は左記(イ)(ロ)(ハ)合計六一〇三萬円と見積られる。

(イ) 建物工事費二七〇八萬円(電気設備を除く)

現実の復旧工事を担当し現場を最も詳細に知る大成建設株式会社に建物工事費の部分につき右純損失の見積を依頼したところ二七八七萬八四三五円という結果となつた。その額が意外に僅少なので間合せたところこの額中には吉本の改装した在来の電気設備はすべて使用し得るものとし只電灯工事費七九萬三〇〇〇円を計上したに過ぎないというのである。しかし在来の電気設備はキヤバレー向に改装された建物に設備されているもので復旧工事後は使用し得ないものである。

「甲第四四号証」は大成建設の復元工事費見積書(昭和二九年一一月附)。

(ロ) 電気及び照明設備(二三二〇萬円)

現実の復旧工事では電気及び照明設備に二九〇〇萬九三〇五円を要し(一の2の(イ)中の一六五〇萬円と(ロ)の一二五〇萬九三〇五円)ている。復元工事費を仮にこの八割と見れば二三二〇萬円となる。

(ハ) 場内装飾舞台装置暖房装置等(一〇七五萬円)

これは一の2の(ハ)に相当する部分で(ハ)と同額として一〇七五萬円となる。場内装飾は旧の格天井その他に相当し、舞台装置暖房装置等も現実前記(ハ)により使用した費用では旧歌舞練場の状態に復するにすぎないのであつて旧以上に改善されないからこの(ハ)の額は全部復元に要する費用と見るべきである。

3 椅子机襖等備品滅失による損害(約一千萬円)

吉本に引渡された歌舞練場には高級椅子机等数百点美術的価値多大の襖衝立等多数があつたのであるがこれらは或は吉本のキヤバレー営業に使用されて破損滅失し或は改造工事によつて滅失した。これらは昭和二七年当時の価格にして一〇〇〇萬円を下らないものと見られる。

「甲第四五号証」は昭和二一年三、四月頃吉本の辻坂経理部長が作成し祗園に交付した吉本使用中の祗園所有備品の調査書「甲第四六号証」はその後間もなく吉本の使用人小西が祗園の事務長杉田と立会調査し小西が作成した同備品調査書で五百数十点の椅子机等の備品とその所在場所を明にしている。

「甲第四七号証」は右の調査に漏れた安楽椅子二個につき吉本が祗園に差入れた借用証(昭和二二年一月二二日附)。

4 都おどり開催不能による損害(約二千萬円)

古来都おどりは祗園新地甲部お茶屋組合と祗園新地甲部芸妓組合より成る祗園歌舞会の催すものである。歌舞会は古くより財団法人に対し会場たる歌舞練場の借賃若干を支払い諸経費(出演芸妓に対しては日当支給)を差引いた純益をお茶屋組合と芸妓組合とが折半ししかも両組合は折半して得た利益をそのまま財団法人に寄附する慣例である。従つて都おどりによる収益は借賃及び寄附の形においてすべて財団法人の収入となるのである。

本件調達がなかつたならば祗園(正確には歌舞会)は昭和二一年から毎年春の都おどりを開催したであらうが調達のため昭和二一年乃至二四年はこれを開催することができなかつた。このため祗園の主要財源の一である都おどり公演の利益を得られず、その額は推算方法を考究中であるが各開催すべき当時の価額によるも一〇〇〇萬円を超えるものと想像せられる。

昭和二五年乃至二七年は歌舞会が松竹株式会社より南座を借りて都おどりを開催し、昭和二五年は三〇〇〇萬円の借料を支払い昭和二六、二七年は興業収入の四割を松竹に支払つた(甲第四一乃至四三号証)。松竹にこの四割として支払つた額は昭和二六年につき三三四萬七八〇二円、同二七年につき一六六萬六〇〇〇円であるが、松竹は昭和二六、二七年については共同事業としてこの他に従前は祗園側で行つていたプログラム売却その他の収益があつて昭和二五年度の如く一日につき一〇萬円の賃料を取得するよりも遙かに有利であり、従つて祗園は松竹に対し昭和二六、二七年につき少くも合計八〇〇萬円、昭和二五年を合算すれば一一〇〇萬円を松竹に支払つたことになる。但しこの一一〇〇萬円をそのまま祗園の損害として主張することは若干の疑義がある。それは南座の観客収用人員は一三四〇人であり旧歌舞練場は定員八五〇人であつたからであつて右一一〇〇萬円に観客定数の比率を乗じた六九七萬七〇〇〇円が祗園が調達のため昭和二五年より二七年まで他の劇場を都おどりのため借用せざるを得なかつたことによる損害となるであらう。

5 調達中建物の使用下能となつたことによる損害(一億五千萬円以上)

この損害は賃料(但し都おどり期間中の狭義の歌舞練場に対するものを除く)相当額ということになり、その額はその間の公租公課火災保険料のみで一〇〇〇萬円を超える見込であること及び既に昭和二〇年一二月面積一四〇坪の建物部分(シヨールームプルニエ)が権利金二〇萬円賃料年一二萬円で転貸されている点等から見て権利金なしの賃料相当額は少くも公租公課保険料の一五倍一億五千萬円を超えるものと考えられる。

6 祗園の支出した改修々理費

弥栄会館の改修費(右一の5-昭和二〇年一二月支出)その他合計約一〇〇萬円であるが、これは吉本より収受した賃料八五萬円(昭和二〇年二一年二二年に収受)と一応損益相殺してもよいと考える。

7 借金の利子(約四千萬円)

前記一の6の借金利子既払分四、五千萬円と将来の利子も調達なかりせば支払の必要がなかつたものであり国に対して請求し得ると考えられるのであるが今差当りこれは主張しない。

第七章祗園の補償請求の経過

祗園は前章に述べた如く本件調達により多大の損害を蒙つたのであつて従来その補償請求を繰返し国に対しなして来た。

一 調達終了前の補償請求

1 終戦連絡事務局に対するもの

昭和二一年頃祗園側より京都終戦連絡事務局に補償の問題を問合せたところまだ一般に調達補償の方針が未決定であると答えられ又その後問合せたときは本件は建物の所有者と経営者が異るので不動産の調達か役務の調達か方針が決定しないとの話であつた。

2 京都特別調達局に対するもの(昭和二五年二月)

昭和二五年祗園では京都において帝産オート会社が進駐軍用バス営業を軍の都合により廃止するについて補償金を貰つた話を聞き又京都特別調達局が京都新聞にピアノ等を占領軍に接収された者は補償するから申出られたいとの公告をしたので財団法人及び組合の事務長杉田亘は同局に赴き昭和二〇年九月、最初に軍に取上げられたピアノの返還と歌舞練場の原状回復費の補償とを陳情したところ同局より「ピアノの返還は可能である、又歌舞練場の原状回復費は軍から正式のPDの発出があれば支払可能であるが本件はPDがないので、差当り困難である。しかしとに角陳情書を提出せよ」との指示があつたので祗園では京都八坂女子技芸専修学校理事長(財団法人理事長の趣旨――学校に理事長なるものはない)杉浦治郎右衛門の名においてピアノの返還と建物原状回復費の補償を求める旨の陳情書を作成し昭和二五年二月一日これを右調達局に提出した。この結果ピアノは昭和二七年になつて返還せられたが原状回復費については何の応答もなかつた。後に聞くところによれば当局においては当時建物の損失補償に対する処理方針が未決定であつたのと正式PDがないとのため原状回復費についての決定を保留していた由である。(甲第五三号証五項参照)。

「甲第四八号証」は昭和二五年二月一日祗園より京都特別調達局へ提出したピアノ返還、建物原状回復費、補償に関する陳情書の写しで原本と相違ないことを京都調達事務所長が認証したものである。

二 調達終了後の補償請求

祗園では当面の急務が都おどり会場たる歌舞練場の回復であり損害の補償はその次の問題であつたゝめまず専ら建物の回復に努力していたのである。調停の結果祗園は昭和二七年吉本に対し三千萬円を支払うことゝなつたが、祗園の財政は数年間の都おどり開催不能、弥栄会館の使用不能と右三千萬円支出等の為窮乏しその上約一億円を投じて歌舞練場の原状回復をしなければならない見込となり、祗園の理事者は組合員より三好知事の一片の約束を信用して悲惨な今日の窮状を招いたとて激しい非難を受けるに至つた。又知事、警察部長に対する非難も激しかつた。祗園理事者は責任上からしても何とかして知事の約束に従つて国家から、補償を得その補償金で復旧工事をしなければならない立場になり以後国家に対し左の如く繰返し補償の申請をするに至つたのである。そして補償が余りに手間取るので止むを得ず銀行の協調融資を得て復旧工事をするに至つたのである。補償申請に当つては知事より補償の約束のあつたことをも述べたのであるが(甲第五三号証二項、甲第五二号証中頃、甲第五四号証始めの部及び末頃)調達庁ではこの約束の法律的効果等について考えず専ら調達の面からのみ事を考えPDのないことにこだわつていたものゝようである。

1 大阪調達局に対する昭和二七年四月の陳情

昭和二七年四月一五日連合国占領期間中における調達に伴う損失補償の陳情書を大阪調達局事業部宛提出したがPDがないとてこれを却下せられた。(甲第五三号証六項)この陳情も原状回復費の補償を申請したものである。

2 大阪調達局に対する昭和二七年一一月の陳情

昭和二七年一一月京都八坂女子技芸専修学校理事長杉浦治郎右衛門の名において大阪調達局京都出張所に対し復旧工事見積費八三〇五萬九九〇〇円を補償せられたいとの陳情書を提出したが同出張所より大阪調達局宛にせよとの指示があつたので更に宛名を同調達局として提出し昭和二十八年三月四日同局に受付けられ係官が出張して調査したが却下せられた。

「甲第四九号証」は右祗園より大阪調達局に提出し却下せられた陳情書の原本である。

3 大阪調達局及び京都府に対する昭和二八年八月の陳情

昭和二八年京都新聞に建物を接収された者は府や調達局に申請すればその損失を補償して貰えるとの記事が出たので祗園は同年八月京都八坂女子技芸専修学校理事長杉浦治郎右衛門の名において京都市知事及び大阪調達局長に対し原状回復費八三〇九萬九九〇〇円の補償を求める旨の陳情書を提出した。知事に提出したのは接収が知事の命令により行われ知事が補償の約束をしているからである。

「甲第五〇号証」は右京都府知事に対する「甲第五一号証」は大阪調達局長に対する各陳情書のコピーである。

4 調達本庁に対する昭和二八年八月の陳情

昭和二八年八月一五日進駐軍による事故のため被害を受けたものに対する見舞金等支給要領(家屋、家財、死傷者等に対する見舞金)によりこれが損失補償につき京都府知事経由東京の調達本庁総務部宛に陳情書を提出した。(右3の京都府知事宛のものとは別のもののようである)。この結果本庁総務部河合事務官が京都出張所に出張し「軍側の使用は事実であるから調達局長の調達確認により返還財産処理要綱により建物の原状回復費を補償してやるのが相当である」との意見を出張所長に指示した。そこで京都出張所では軍に連絡し調達当時の文書がないかと調査したが見付からなかつた。(甲第五三号証七乃至九項)

5 大阪調達局に対する昭和二八年一〇月の陳情

祗園は昭和二八年一〇月二五日京都八坂女子技芸専修学校理事長杉浦治郎右衛門の名において大阪調達局長に対し原状回復費八三〇五萬九九〇〇円の補償を求める旨の陳情書を提出した。この陳情書において祗園は三好知事が国家に於て責任を持つと確言したことを述べている。

「甲第五二号証」は右陳情書のコピーである。

6 京都調達事務所の調書

右の連続陳情と調達本庁係官の出張等により京都調達事務所では本件についての調査を整理しその意見をまとめ「京都八坂女子技芸専修学校付属建物歌舞練場軍専用キヤバレーとして使用中の損失補償方陳情に対する調書」を作成し上司に報告した。その要旨は本件は「軍側の使用は事実であり唯正式PDの発出がなかつたゝめ現在迄未処理案件となつているが当時関係当局がPDの発出を軍側に要請すればPDの発出も可能な状態であつたのであるからスキヤツプイン一八七二号(Preemption-PDのない調達-について)の発出当時その違反事項として補償し解決せらるべきものであるというにある。

「甲第五三号証」は右京都調達事務所の調書を祗園で写したもの。

7 大阪調達局に対する昭和二九年二月及び三月の申立

昭和二九年二月四日京都八坂女子技芸専修学校理事長代理人弁護士中村豊一より大阪調達局長に対し三好知事より補償の言明のあつたことをもあげ復旧工事に要した費用一億一二一五萬五七八〇円、吉本に支払つた三〇〇〇萬円その他都おどりに使用できなかつた補償、適正な賃料の相当額等につき補償を求める申立書を提出した。

「甲第五四号証」は右申立書のコピーである。

昭和二九年三月一八日右祗園代理人中村豊一は大阪調達局長に対し祗園と吉本間の契約書及び調停調書についての法律的説明をした追加申立書を提出した。

「甲第五五号証」は右追加申立書のコピーである。

8 大阪調達局の審査

以上の申請陳情により大阪調達局では調達本庁と連絡し三好元知事、吉本の林社長、祗園の理事者等を喚問審査した結果相当額の補償をする方針を決し申請代理人にその旨告知し調達本庁に補償の方針である旨上申した。

9 調達本庁の申請却下

然るに昭和三〇年四月二七日調達庁丸山次長は大阪調達局長に宛て判定書を添え京都八坂女子技芸専修学校よりの補償申請は判定書の理由によりこれを認めないことゝなつたから申請人にその旨伝達されたい旨通知し、これに基づき大阪調達局長は昭和三〇年五月二七日申請人に対し本庁から通達があり判定書の理由により貴意に添うことができないこととなつたから了承願いたい旨を通知し申請を却下した。

「甲第五六号証」は調達庁次長より大阪調達局長宛通達書の写し「甲第五七号証」は大阪調達局長より申請人宛の申請却下通達書である。

右申請却下の理由は判定書によれば「三好知事が建物の提供を命じ国費による賠償を約し祗園が損害を受けたことを今直ちに否定するものではないが諸種の事情から見ると府が調達命令を発して申請人が直接軍に提供したものと見るべきではなく占領軍の強要に原因する京都府当局の勧告を考慮して申請人自らがキヤバレー経営者の吉本興業合名会社に建物を賃貸したものと見るを妥当とすべく従つて本申請の請求は吉本興業との間において解決されるべき性質のものである。そして吉本興業との契約は占領軍の強要に基き京都府当局の強い勧告に基きやむを得ず締結したものでその結果申請人が損害を被つたものであるから政府の責任は免れないのではないかとの議論があるがこれは行政官庁として判断すべき限りでなく専ら司法権の問題であると考えられる」。というにある。

10 申請却下の不当

右調達庁の判定は本件が調達の実体を有する以上同庁として補償を与えるべきであり他に司法権による救済あることは補償を拒絶する理由にならない点を忘れたものであり国家賠償法一条にいう重大な過失があるものである。

第八章 本訴による原告の請求

国は祗園に対し(イ)三好知事の賠償約束により(ロ)徴発調達の法理により(ハ)スキヤツプインA七七によりその蒙つた損害(第六章二の1乃至5)凡そ二億七千萬円以上を賠償すべきであるが損害額は尚調査と裁判所の証拠調によらなければ判明しないので取敢えず本訴においては内金百萬円の限度を請求し今後の調査及び訴訟上の証拠調の結果を俟つて請求の拡張を行う予定であるからこれを御含みの上訴訟を進行せられたい。

附属書類

一、資格証明書一通

一、委任状一通

一、図面一乃至七

一、写真一乃至一九

一、甲第一乃至四号証第五号証の一乃至六第六乃至一六号証第一七、一八号証の各一、二第一九乃至五七号証写

昭和三二年四月三〇日

右原告訴訟代理人 中村豊一

同 磯村義利

東京地方裁判所 御中

第一目録

京都市東山区祗園町南側五百七十番地の二

一、宅地 四千七十四坪八合七勺

第二目録(通称歌舞練場-延坪八四四坪余)

京都市東山区祗園町南側五百七十番地の二地上

家屋番号 同町七部の六十五番

一、木造瓦葺平家建劇場 二百十四坪

附属

同上二階建休憩室 百六十二坪六合二勺

外二階坪 百三十坪七合四勺

同上平家建便所 十三坪一合三勺

同上二階建劇場 二百八十三坪八合八勺

外二階坪 四十坪八勺

第三目録(通称八坂クラブー延坪四六三坪)

京都市東山区祗園町南側五百七十番地の二地上

家屋番号 同町七部の六十四番

一、木造瓦葺二階建店舗  建坪 百八十五坪一合

外二階 百六十一坪二合

一、木造瓦葺平家建店舗建坪 建坪 二十二坪五合

一、木造瓦葺平家建便所 建坪九坪

一、木骨造瓦葺二階建物置 十八坪九合

外二階坪 十八坪九合

一、土蔵造瓦葺平家建倉庫 九坪四合

一、木造瓦葺平家建居宅 建坪 三十八坪

第四目録(通称弥栄会館-延坪二〇一二坪余)

京都市東山区祗園町南側五百七十番地の二地上

家屋番号 同町七部の六十六番

一、鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階附五階建劇場

一階坪 三百九十三坪七合六勺

二階坪 三百四十八坪二合二勺

三階坪 三百七十八坪九合

四階坪 二百二十一坪五合

五階坪 百二十五坪四合

地階坪 四百六十四坪五合八勺

附属

鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階附二階建物置

一階坪 六十三坪四合

二階坪 五坪

地階坪 十二坪二合

準備書面

昭和三二年(ワ)第三二三七号損害補償請求事件につき左の如く主張を準備します。

昭和三二年一〇月二一日

原告訴訟代理人

中村豊一

磯村義利

東京地裁民事第二三部 御中

祗園の財団法人が学校法人に改組されるについて財団法人の全財産が学校法人に移転した経過について従来の主張を訂正補足し左の通り主張する。

一、学校法人の設立に当り学校法人に寄附せられる財産は法人成立の時より法人の財産を組成するのであり(私立学校法第三四条民法第四二条一項)、学校法人は設立の登記をすることによつて成立する(私立学校法第三三条)。

二、本件において財団法人は昭和二六年七月一〇日その全財産を設立手続中の学校法人に寄附し(甲第五号証の六「財団法人の全財産を新設学校法人に寄附するとの理事会決議」に基き甲第五号証の七の如く寄附が行われた)たので財団法人の全財産は学校法人設立の日たる昭和二六年七月三一日学校法人の財産となつたのである。

「甲第五号証の七」は甲第五号証の二乃至六と同じく甲第五号証の一の添附書類で財団法人より学校法人への寄附申込書である。

但し甲第五号証の一乃至七は府知事に提出された申請書そのものではなく、申請書を祗園で二通作成しその一通を知事に提出したもので、他の一通を控えとして祗園で保存しているものが甲第五号証の一乃至七である。

三、訴状一九頁4の弥栄会館の次に5として

門及び土塀二八五間八五

を追加する(甲第五号証の七財産目録一の(ハ))。これは大正三年歌舞練場と同時に構築せられたものである。

四、訴状一五頁一三行目、一六頁九行目、一八頁九行目、一九頁五行目に各「昭和二七年七月」とあるを「昭和二六年七月」と訂正する。

第二準備書面

原告 学校法人 八坂女紅場学園

被告 国

右昭三二年(ワ)第三二三七号損害補償請求事件につき左の如く主張を準備する。

昭和三三年二月二一日

原告訴訟代理人 中村豊一

同 磯村義利

東京地裁民事第二三部 御中

一、損害補償の範囲について

原告は本件において(イ)三好知事の補償約束により(ロ)徴発調達の法理により(ハ)スキヤツプインA七七により損害補償を請求しているのであるが、これら(イ)(ロ)(ハ)は債務不履行或は不法行為によるものでないからその補償の範囲は「通常生すべきもの及び予見し或は予見し得べきもの」に限らず調達と因果関係ある全損害に及ぶのである。但し特殊な天然現象等全く奇想天外の原因によるものは除くべきかも知れない。例えば祗園が吉本に支払つた改装費補償三〇〇〇万円は「通常生ずべき或は予見し予見し得べき」ものと解せられるのであるが(府が祗園にキヤバレー等の設営改装を命じ祗園が吉本にその設営改装を依頼したのでありこのことは府において知つていることであるから)、仮に然らずして相当因果関係内でない損害と解するも調達と因果関係あり且奇想天外の損害ではないから補償すべき範囲内の損害である。この改装費三〇〇〇万円については原告は尚予備的に訴状六四頁2の債権譲受及び求償権を主張している。

二、訴状四八頁二の1の項について冒頭に左記事実を追加する。

弥栄会館は改装工事中と雖当局の了解を得て吉本が使用し得る旨の了解が祗園と吉本間にあつたので(甲第一七号証の一、第六項、甲第一七号証の二第四項)、これに基づき吉本は昭和二〇年十月二一日頃より昭和二一年始頃(吉本が映画館として営業を始めたとき)までの間時折弥栄会館三階の劇場を漫才その他の実演劇場として使用した(乙第二六号証)。

昭和三二年(ワ)第三二三七号損害補償請求事件

原告 学校法人 八坂女紅場学園

被告 国

昭和三十二年九月二十日

被告指定代理人

東京都港区赤坂一旧赤坂離宮内 法務省訟務局

第一課長 武藤英一

局付検事 真鍋薫

法務事務官 大塚和信

東京都千代田区神田岩本町三 調達庁不動産部審査課

総理府事務官 谷口修一郎

同 佐々木肇

東京地方裁判所民事第二三部 御中

答弁書

請求の趣旨に対する答弁

原告の請求を棄却する

訴訟費用は原告の負担とする

との判決を求める。

請求の原因に対する認否

第一章について。

不知。

第二章について。

一、について。

4のうち「本件もこのP・Dがなかつたために補償措置がのびのびになつてしまつたものである」との点は否認する。その余の事実は認める。

法律上の主張に対しては、おつて必要に応じて被告の見解を述べるが(以下同様)、2のうち、「調達に関する限りヽヽヽヽ占領軍の行為から生じた一切の責任は法律上全面的に国に帰属する」との点は争う。

二、について。

認める。

三、について。

目下調査中である。

第三章について。

国(三好元京都府知事)が原告もしくは組合及び吉本に対し、原告主張の如き損失補償ないしは改装費負担を約束したこと、及びこれを前提とする主張は争う。その他の事実は不知。

第四章について。

不知。

第五章について。

不知。

第六章について。

争う。

第七章について。

二のうちの2、3、5の陳情の事実、6の調書作成の事実、7の申立の事実及び9の申請却下の事実は認めるが、その余の事実は争う。(但し、なお、調査継続中である)

昭和三二年(ワ)第三二三七号損害補償請求事件

原告 学校法人 八坂女紅場学園

被告 国

昭和三十三年三月一日

被告指定代理人

武藤英一

真鍋薫

大塚和信

谷口修一郎

佐々木肇

山元章

東京地方裁判所民事第二十三部 御中

準備書面

第一、本件事実関係を略述すると、大要次のとおりである。

一、(1)  昭和二十年八月十五日終戦に伴い政府は戦時態勢を速かに解いて進駐軍を受け入れる準備をする必要に迫られた。そこで同月二十二日には閣議決定を以つて政府に終戦処理会議を設け、その下に終戦事務連絡委員会を附属させて「停戦協定事項を正確に実施するため、右事項に関する大本営および政府各機関の分担事項の確定およびこれが実施促進に関する事項」を処理することゝした。ついで右にかえて同月二十六日進駐軍よりの要求により外務省の外局として終戦連絡中央事務局が設置せられ、九月七日の閣議で「終戦連絡事務局の地方機構に関する件」が決定され、中央の右機構に呼応して必要な個所に終戦連絡地方事務局が設置され、又その目的達成のための協力機関として終戦連絡地方委員会(委員は、関係各省、地方総監府、都道府県等の関係官とし、委員長は地方事務局長がこれに当る)が設置され、地方機構は漸次整備されて来た。(調達史一〇〇頁以下)これに伴い九月十九日には内務次官から知事あての「地方における終戦事務に関する件」が発せられたが、これは右閣議決定に基くものであつて、地方長官を終戦事務について政府の責任者とするとの明確な趣旨ではなく、渉外事項は外務官吏が行うから、地方長官はその協力を遺憾なく実施するようにとの通牒に過ぎないものと解せられる。

(2)  かような政府の進駐軍受入態勢に応じて、京都府においても、進駐軍の京都進入を予定し、終戦後時を移さずその受入準備を開始した。その一環として進駐軍から一般婦女子を防衛すること、そのためには進駐軍将兵に対し慰安を提供することが考慮され、八月中、下旬には、神奈川県方面に係官を派遣して実情調査の上これを参考として具体案を練つた。その結果八月下旬には市内の接客業者又はその団体に対し進駐軍将兵向きのダンスホール、キヤバレー、接客宿等の経営方を懇請ないし勧奨した。業者中には利益をあて込んで積極的に経営を希望するものもあり、資金不足等を理由に躊躇するものもあつたが、早いものは九月十一日には改装工事を終り営業を開始するにいたつた(乙第一三号証)

(3)  当時本件不動産は、戦争の影響をうけ、数年来都踊等の公演もできなかつたが、特に終戦直前まで両三年間は風船爆弾の工場として荒れるに任されていたのみならず、料理飲食店禁止のため組合所属のお茶屋も閉店を余儀なくされていた。そこで京都府においては本件不動産を進駐軍将兵向きの慰安施設(キヤバレー等)とするのが適当であると考えたので、他の同種業者に呼びかけると前后して、三好知事、青木警察部長らが組合理事長杉浦治郎右衛門にこれを交渉した。杉浦はキヤバレーの如き経営の経験がないことや、資金不足を理由としてこれをしぶつたが、たまたま経営希望者として吉本興業が現われたので、杉浦は本件不動産を同社に賃貸し、京都府当局の希望に応ずることとなつた。その時期は、おそくとも九月十日前后頃であつて(乙第一三号証、三一号証)、当時はまだ進駐軍は京都市に進入していなかつたのである(乙第八号証、九号証)。したがつて進駐軍の命令というものは考えられない。結局は府当局が軍進入后の地方行政をうまくやるための一つの方法として歌舞練場に軍将兵向きの慰安施設の設置を考え、これを杉浦に懇望したところ、杉浦は経営経験がないので当初はしぶつていたが、経営者として吉本興業が出現したため、府の希望が実現したということに帰するのであつて、国が調達したという関係では全くない。

(4)  他方前述の政府の方針に基き中村公使は九月七日十数名の要員とともに京都市に着任し、府庁に終戦連絡京都地方事務局を開設して進駐軍の入洛を待つた。やがて、九月中旬頃数名の先遣将校が、次いで同月二十日過頃二十名位の先遣部隊が京都市に来て視察を行つた。その連絡、折衝は終戦連絡京都地方事務局が担当したが、宿舎、事務所の調達についての調査、下検分はあつたけれども、慰安施設はなんら調査の対象とならなかつた。ことに、京都市は戦災を受けておらず平静であつたし、練達な調達将校が先遣部隊にいたため進駐軍としてはキヤバレーのような慰安施設を調達しないという方針を熟知しており、終連側職員もこれを諒解していた(吉岡章の証言)。進駐軍の本隊は九月二十五日頃より入洛しはじめ米第六軍司令官クルーガー大将、憲兵司令官ベル大佐は前後して二十八日京都に入つた(乙第二三号証、二五号証)。ベル司令官は翌日頃府当局の案内で市内を視察したが、当時すでに歌舞練場は進駐軍向きの慰安施設とするように改装中であつた。もちろん、ベル司令官から慰安施設について調達の要求はなされていない(山田勝太郎の証言)。前記のように先遣部隊に有能な調達将校(第六軍の調達将校であり、のちに第八軍のそれになつたフエゴツシー中佐)がいたため、慰安施設(たとえば本件不動産のごときを調達することもなく、調達事務は円滑に進み、口頭調達という便法も殆んど行われず、九月中すでに調達命令書(P・D)により正常な調達が行われるという運営ぶりであつた(乙第三三号証、三四号証、吉岡章の証言)。

二、(1)  吉本興業は右のようにして本件不動産を借り受け九月中旬にはその引渡を受けたが、賃貸料は年額三十万円と定め、(この約定賃料は当時の公租公課額年間一二、五六〇円一六銭に比すると決して低額ではない)三年毎に改めて協定すること、賃貸期間は一応十年と定め事情によりこれを延長しうること等を約定した(甲第一七号証の一、二、甲第六九号証の一、甲第七〇号証の一)。右約定によれば、吉本興業は本件不動産を足場として大阪より京都への進出を意図したことが窺われるが、歌舞練場(狭義)を進駐軍向のキヤバレーに、弥栄会館を一般の映画、演劇場とする方針の下に改装工事に着手し、その後安宅産業から歌舞練場の一部の転貸方を申し込まれ、これを承諾して転貸借契約が成立し安宅産業はこれを一般向の日本商品展示場及び喫茶飲食店とすることを計画した。かくして弥栄会館はヤサカ会館として昭和二十年十一月二十一日、キヤバレー及びシヨールーム、プルニエ(安宅産業転借部分)はそれぞれキヤバレーグランド京都及びシヨールーム、プルニエとして同年十二月二十七日開業した(乙第二十六号証、乙第二十八号証、乙第二十九号証、乙第三十号証、乙第二十一号証、甲第十八号証の二)。

(2)  終戦后の混乱が平静に戻り、京都における進駐軍の駐留が少くなるにつれ、祗園は従来の経営形態で歌舞練場を利用するのが得策であると考え、京都観光と都おどり復活という理由をかかげて吉本興業からこれが返還を受けようとした。けれども、吉本興業は自己の営業政策、ならびに前記賃貸借契約の条項を理由に、祗園の要求には容易に応ぜず、結局昭和二十四年三月祗園は明渡訴訟を提起した。訴訟は、昭和二十六年十一月十九日調停成立により終了したが、その内容は、祗園は吉本興業に対し改装費用、賃貸借期間残存分補償料等として三千万円を支払い、本件不動産(ただし、シヨールーム、プルニエ部分を除く)の返還を受けること、シヨールーム、プルニエ部分は、引続き株式会社京都プルニエに昭和三十年十二月十五日まで賃貸すること等であつた。右訴訟ないし調停中、両当事者ならびに代理人、調停関係者は、本件不動産の賃貸借関係につき国がなんらかの法律上の責任を負うと考えてもいなかつたので、その主張、助言をしていなかつたことはもちろんで、国とは無関係に訴訟調停が行われた(椹木義雄の証言)。かくして、昭和二十七年はじめ祗園は吉本興業から歌舞練場の返還を受けたが、祗園はそれまで国に対し本件について損害の補償請求をしていなかつた(吉岡章、山元章の証言)。甲第四十八号証(昭和二十五年二月十一日付)は、昭和二十八年改変されたもので(山元章の証言、検乙第一号証)、調停成立前から祗園が国に対し歌舞練場について補償の請求をしていたように見せかけるためになされたものの如くである。これらの事情から推測すると、祗園も従来は、歌舞練場が調達されたなどと少しも考えていなかつたのであるが、吉本興業から、歌舞練場の返還を受けるにあたつて相当の期間を要し、かつ多額の支出を余儀なくされたことから、その負担を国に転嫁しようとして昭和二十八年になつて補償の請求をしはじめた(甲第四十九号証)ものと思われる。爾来屡次にわたり国に対し請求、陳情をしたが、国においてはこれに応ずる根拠が全くないのでいずれもこれを却け、結局本件訴訟となつたものである。

第二、歌舞練場について被告に損害補償義務はない。

一、歌舞練場が調達されたことはない。

(1)  一般に調達というのは、軍がその占領目的を達成する必要上、日本政府に対して物資・役務の提供を命じ、政府がその要求を充たすために私人から契約によつて任意の提供を受けるか、もし私人が任意の提供を承諾しなければ、昭和二十年十一月十七日勅令六三五号要求物資使用収用令、同月十九日勅令六三六号土地工作物使用令(以下、使用、収用令という)を発動して強権的にこれを取得して、これを軍に提供する関係をいう。もつとも占領軍の調達要求は、直接には政府に対するものではあるものの、一般私人にとつても、それは殆んど至上命令と考えられ、これに基いて政府が私人に要求物件の提供方を接渉懇請すれば、私人がこれを拒否することは殆んどなく、従つて、政府が使用収用令を適用して強権力を発動した事例は稀有に属する。

かくして、軍の調達要求に基く政府の私人に対する物資役務の提供方の懇請、接渉は、実際上は殆んど命令にも等しい意味を持つ結果になるのであるが、形式的には、政府が使用収用令を発動しない限り、それはあくまでも任意の提供を求めるものであり、結局は貸借、売買、雇用、請負等の契約(以下貸借契約等、または借上等という)によつて私人からその提供を受け、該契約に基いて私人に賃料等を支払い損失を補償するものといわなければならない。

なお、占領のごく初期には右のような調達方式が確立されていなかつたので、軍自らがその需要する物資を私人から直接強権的に徴発接収した事例も少くないが、それらについても、後日、それが軍の公的な需要に基く正式の徴発接収と認められる限り、政府は、当該物件について私人と貸借契約等を結び、その契約に基いて代償を支払つたり、損失を補償して解決している。

(2)  ところで、軍は歌舞練場(原告のいわゆる広義の意味においても、また狭義の意味においても、-以下同じ)について、占領目的達成の必要上、これを軍に提供せよとか、あるいはキヤバレー等を経営して軍の利用に供せよというような命令ないし要求を、祗園に対しても、吉本に対しても、はた、また政府に対してもしたことはない。

もし仮に、軍が政府に対し、歌舞練場でキヤバレーを経営して軍の利用に提供せよと要求したとするなら、(そのようなことは実際上考えられないところであるが)恐らく、政府は、祗園にその経営を委託するとか、祗園がそれを承諾しなければ政府が祗園から歌舞練場を借上げ、経験者を支配人に雇入れて政府自身の計算でキヤバレーを経営するとか、あるいは、業者に経営を委託するとか、適宜の手段をとることになると想像される。しかし、いずれにせよ、政府が他にその経営を委託するとすれば、その場合、政府はその業者との間に、収支の計算や損益の分配について詳細な取りきめをし、軍の要求がやめば直ちに委託契約を解除する等の約款を附するのが必然といえよう。政府が業者にキヤバレーの経営を委託するのに、収支計算や損益分配について何らの取りきめもせず、業者の勝手な経営に放任し、収入があれば業者のもうけ放題とし、支出ないし損失は一切国において負担し補償するというような委託契約をすることが常識上考えられることであろうか。原告の主張によれば、あたかも、政府は祗園もしくは吉本と右のような内容の契約をしたことに等しいことになるのでなかろうか。

いうまでもなく、歌舞練場について、政府は、軍から右のような調達要求を受けたことはなく、もちろん祗園ないし吉本と右のような契約をしたこともない。前に述べたとおり、京都府当局は、軍の京都進駐に先だち、その受入準備として、特に婦女子の安全を擁護する一策として、祗園に対し、歌舞練場で軍将兵向きのキヤバレー等を経営することを懇望しただけである。祗園としても、府民のための、府当局のたつての懇請とあれば無下にこれを拒絶することはできず、前述のような諸事情もあつて、しぶしぶかもしれないが、とも角もこれを承諾し、国の関与なしに、自己の計算で歌舞練場を吉本に賃貸し、吉本はまた、国に関係なく、自己の計算において軍将兵向きのキヤバレーを経営したのである。

もつとも、吉本がいかに軍将兵向きのキヤバレーを経営しても、軍の承認がなければ(オフ・リミツトとされれば)将兵はこれを利用することができない。それで、府当局は軍の京都進駐と同時に、吉本に協力して、軍が将兵に右キヤバレーの利用を承認するよう(換言すれば将兵専用キヤバレーとして公認するよう)軍に懇請し若干のいきさつはあつたが結局その承認を得ることができたのである。かくして、専用キヤバレーとして軍の公認を受け、これを維持するためには、その経営の規模、方法ないし衛生環境等について、ある程度軍の管理に服さなければならないことは当然のなりゆきというべきであろう。しかし、吉本はキヤバレーの経営を軍から強制的に命令されているわけではない。経営難等の理由で、軍の満足する程度にその指示に従い得なければ、専用が解除され、将兵の出入禁止(オフ・リミツト)となるだけである。

こうした専用キヤバレーの経営は、単に本件歌舞練場に止まらず、全国では尨大な数にのぼる。もちろん、その経営にいたる動機においては、前述のように業者自から積極的に希望して始めたものあり、当局の勧奨、懇請にしぶしぶ応じて始めたものもあろう。しかしその経営形態においてはいずれも差異がない。業者はすべて国に関係なく自己の計算において経営するのであり、これを利用する軍人もそれぞれ自からの負担において利用するのである。その限りにおいては、併用キヤバレーその他軍人も日本人も共に利用できる慰楽施設(映画館、飲食店等)と異るところはない。かかる経営形態に調達はあり得ない(吉岡章の証言)。

(3)  もし、原告主張のように、祗園は、軍の調達命令に基く政府の要求に応じて、歌舞練場を国に提供したというなら、祗園はこれを国もしくは軍に引渡さなければならない。しかるに、祗園は国にも軍にもこれを引渡していない。吉本に賃貸して吉本に引渡しているのである(仮に吉本が軍に引渡したものとしても、キヤバレー経営の部分だけである)。

返還の場合も同じである。祗園が国との契約により歌舞練場を国に提供(賃貸)したというのなら、契約終了のとき、祗園は国にその返還を請求し、国は軍から返還を受けて祗園に返還せねばならないはずである。本件の場合そのような関係に立つべきものでないことは上述のところから明らかであろう。当然のことながら、祗園は国に関係なく、吉本に対してその返還を請求し、その間に成立した前述の調停においては、返還期限を昭和二十七年一月末日と協定し、一部は引続き安宅産業に使用させることを特約している。そのような関係の調達はあり得ない。

二、原被告間に原告主張の如き損失補償契約は存在しない。

(1)  原告は、昭和二十年九月末頃三好知事と祗園との間に、祗園は歌舞練場を軍の用に供するため、国に提供し、国はこれに対し損失を補償する旨の契約(損害の補償契約を含んだ賃貸借契約)が成立し、その引渡がなされたと主張される。

しかし、既に述べたところで明らかと考えるが、三好知事は祗園に対し、歌舞練場を国に提供することを求めたのでない。歌舞練場で軍将兵向きのキヤバレー等を経営するように懇請したのである。当然のことであるが、国が歌舞練場の引渡を受けたことはない。祗園は吉本に歌舞練場を賃貸し、吉本をして右キヤバレーを経営させたのである。

(2)  もともと、三好知事からの話で本件不動産がキヤバレー、映画館等に転用されることになつたのは昭和二十年九月上旬のことであり、この構想は府独自の考えに基くもので、進駐軍はもちろん、国からの指示は全くなかつたものである(第一、一参照、甲第十三号証(三好知事の証明書)は乙第三十一号証(三好知事の証明書)に照し、甲第十四号証(青木貞雄の証明書)は乙第五号証の一(同人の証言調書)等に照し信用できない)。

(3)  かりに三好知事が右の転用を懇望した際、そのために祗園に迷惑をかけないようにするとか、損失が生じたら補償するといつた趣旨の発言があつたとしても、そうした発言は必ずしも本件不動産についてのみなされたのではないのであつて、ひつきようするところ、府当局の勧奨懇請に応じてキヤバレー等を経営する以上、これに要する資金のあつせんや改装資材の割当等にできるだけの便宜をはかつて迷惑をかけないようにし、損失の補償についても知事としてできるだけの努力をするといつた趣旨の政治的発言、ないしは、同知事においてそのように努力すれば、後日国と祗園との間に正規に何らかの補償契約がなされるであろうとの希望的観測意見を述べたに止まるものと解すべきである。そのことは損失補償の範囲、時期その他について何らの取きめをしていない点からも容易に観取しうるところであるが、なお、三好知事は国が補償しなければ府の金ででも補償してやるといつた趣旨の発言もされているようにみえる点、また「総理大臣にいつても(本件を解決)するつもりであつた」という反面、昭和二十年十月自ら内閣副書記官長になつたにも拘らず別段に解決の配慮をしていない点、更に、祗園自身も前述のように昭和二十八年頃まで何ら補償の請求ないし陳情をしなかつた点等を考えても、原告の主張される三好知事のいわゆる補償の約束が確たる法律的根拠をもつて法律的効果の発生を意図していたものでなく、単なる政治的発言ないしは希望的観測意見であつたことは明らかであろう。

三、スキヤツプインA七七について。

スキヤツプインA七七は、調達が行われた者、換言すれば日本政府が支払義務を負う者に対し、その迅速な支払をせよという軍の政府に対する命令にすぎない。この命令により別段の支払義務が生ずるものではない。ところで、本件不動産については調達が行われた事実がなく、政府は原告に対して補償義務を負わないこと前述のとおりであるからスキヤツプインA七七の適用される余地は全くない。

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